tag:blogger.com,1999:blog-36193104176825316292024-03-05T15:05:31.202+09:00Blog - Deep Azabu東京都港区麻布周辺の情報、昔話などをお届けします。DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comBlogger300125tag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-73154356042779396272019-08-15T05:32:00.002+09:002019-09-26T17:01:45.319+09:00高縄町歩き2019.9/28
★高輪(高縄)町歩き★9/28(土)14:00~
コース順路
高輪町歩き3D地図
芝三田二本榎高輪邉繪圖
★高輪の語源
「高縄原」として書かれていることに由来する。高縄とは高縄手道の略語であり、
高台にあるまっすぐな道を意味している。ちょうど丘陵の中心部を南北に走る二本榎通りが、
あたかも高いところに張った縄のようであったからと伝えられる。
またこのほかに、吾妻鏡の中に登場する1189年(文治5年)の奥州合戦の際、鎌倉から御供した
人物の一人として挙がっている高鼻和太郎に因んで高輪の地名がついたとする説もある。
(wikipediaより引用)
この道は古来からの往還(主要道路)で、古奥州道下道(しもつみち)、鎌倉街道、古東海道
ともいわれていおり、徳川家康の江戸入府でもここを通過しました。
◎wikipedia-高輪
-----DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-72242861861568298672019-04-12T09:35:00.001+09:002019-04-12T10:09:17.151+09:00⑭服部ハウス
現在の服部ハウス
1933(昭和8)年、セイコーの創業者、服部金太郎氏の邸宅として建てられた洋館で、
設計者は帝国ホテル新本館などを手がけた高橋貞太郎。
この服部ハウスは敷地面積16,815㎡という大きさで、これは東京ドームの三分の一ほどにもなります。
戦後は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、極東軍事裁判(東京裁判)では連合国側主席検事となるジョセフ・キーナンら10名の検事の宿舎兼オフィスとなりました。
そして機密保持のためこの敷地の門前にはMPが歩哨が立ち通訳官、タイピストなどが、裁判中外出を許されない状態で常駐していました。
ネット上などには「日本国憲法の草案作成地」との情報もありますが、それは明らかな間違いで、日本国憲法草案が審議されたのは現在アーク八木ヒルズ(港区六本木1-8-7)です。
また、服部ハウスに隣接する野村ハウスには検察側証人田中隆吉陸軍少将の保護さDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-62101670242233274642019-04-10T06:20:00.002+09:002019-04-12T10:10:46.590+09:00白金氷川神社
★白金氷川神社
(正式名称は氷川神社)
日本武尊が東征の折に大宮氷川神社を遥拝した当地に、白鳳時代()に創建されたと伝えられている。
江戸時代中期の明和9年(1772年)明和の大火により焼亡し、江戸後期に社殿が再建された。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)空襲によって江戸後期の社殿が焼亡した。
現在の社殿は昭和33年(1958年)に竣工したものである。
(wikipediaより引用)
港区オフィシャルサイトの「雷神山児童遊園」には戦後雷神社のご神体は氷川神社に合祀されたと伝えていますが白金氷川神社は当社ではないと明言しています。
◎港区オフィシャルサイト「雷神山児童遊園」
https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/jidoyuen/takanawa/15.html
◎Blog DEEP AZABU-雷神山
https:DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-36982133097310404782019-04-10T06:07:00.000+09:002019-04-12T10:11:29.479+09:00雷神山
★麻布の橋-その2-3
字雷神下とその周辺
狸蕎麦の梅屋敷とその水車をお伝えしましたが、少し気になることが。
この「狸蕎麦」という里俗の地名は江戸期の古地図にも描かれているのですが、水車の所在地を示す住所は、
「芝区白金三光町字雷神下165番地」
で狸蕎麦という地名は使われていません。
もちろん麻布などの他地域でも住所として使われていない里俗の名称は、内田山、大隅山、薮下、麻布山、鷹石などたくさんありますがこれらは新聞などの用語として頻繁に登場します。
そこで白金地域の字名を調べてみると、上三光、下三光、奥三光、名光、東明名、西名光、松久保、大根原、蜀江台、鷺の森などと並んで「雷神下」がありました。
この雷神下とは近代沿革図集によると
雷神下とは雷神社下の意味で卒古台(蜀江台)へんをさすのである。
とありまた同書の「雷神山」の項には、
雷神社(いかづちじんじゃ)はDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-31701876782214660802019-04-09T18:09:00.003+09:002019-04-12T10:12:19.574+09:00⑰梅が茶屋の床梅
★白金梅ヶ茶屋の床梅
梅ヶ茶屋があった白金氷川神社門前
白金三光坂近くの白金氷川神社別当報恩寺東隣りにあった茶店の白梅の名木。
茶屋の初代オヤジは八右衛門さん、数代を経て忠兵衛さんの時代に枯死したので二本の梅を植え直したとあります。
江戸名所図会はこの梅の名称を、
「白梅にして床梅(とこうめ)と号(なづ)くといふ」
としています。
この梅樹は江戸期の書籍「江戸名所図会」、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」にも掲載されており、江戸でも名高い名木であったことがわかりますが、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」文中ではその梅樹があった場所を「麻布三子阪」と記しており、白金三光坂を麻布としています。
◆Blog DEEP AZABU-麻布名所花暦
https://deepazabu.blogspot.com/search…
◆国会図書館近代ライブラリー
◎江戸名所図会-梅か茶屋DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-79216861895449815962019-04-09T17:56:00.000+09:002019-04-12T10:12:41.843+09:00⑯西光寺・几号水準点
栄松山西光寺
三光坂下の浄土真宗本願寺派の寺院「栄松山西光寺」には境内左手「南無阿弥陀仏」念仏碑左面下部に「几号水準点」が彫り込まれています。
几号は「キゴウ」と読み、明治初期の内務省が地図つくりを試みていた当時の水準点に相当する標石。
港区内にも多くの几号水準点が設置されましたが、その多くは当時最も頑丈と思われた石鳥居、手水鉢、碑などに彫り込まれました。
しかし、それらの管理者の無知から多くが破却されています。
詳細はこちらからどうぞ。
◎DEEEP AZABU-麻布の几号水準点
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi10.html#156
「南無阿弥陀仏」念仏碑
几号水準点
周辺地図
港区域の几号配置場所
DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-1975235028769700732019-04-09T17:41:00.002+09:002019-04-12T10:12:56.181+09:00⑮三光坂
・白金三光町
三光坂上坂標
「三鈷坂」、それ以前は「三葉坂」などと呼ばれていた三光坂が町名の由来とのこと。
1872(明治5)年武家地に白金上三光町・白金下三光町が起立しその後紆余曲折を経て1879(明治12)年、芝区白金上三光町、芝区白金下三光町は芝区白金錦町と荏原郡今里村と合併して東京府東京府荏原郡白金村が起立します。
さらに、1891(明治24)年旧白金上三光町、旧白金下三光町は旧白金錦町、東名光、西名光、松久保、雷神下等を併せて東京府東京市芝区白金三光町が起立します。
・三光坂
聖心女子学院正門前から、西光寺前に向かって降りる坂をいい、明治頃には三鈷坂と称し、更にもとは三葉坂と呼ばれたと伝えられる。
この坂下にある松宮山三葉院専心寺の境内に、むかし、一蔕(へた)に三葉づつ生えている松があって、三葉あるいは三鈷松と呼ばれた。
三鈷松は松の一種で、漢名では三針松又は三DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-10859789308682553542019-04-09T17:34:00.002+09:002019-07-01T13:26:39.650+09:00⑬聖心女子学院正門と伝研・聖心水流暗渠
聖心女子学院正門への通路
・聖心女子学院正門◎聖心女子学院オフィシャルサイト
http://www.tky-sacred-heart.ed.jp/◎wikipedia-聖心女子学院https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BF%83%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%88%9D%E7%AD%89%E7%A7%91%E3%83%BB%E4%B8%AD%E7%AD%89%E7%A7%91%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E7%A7%91
(以下聖心女子学院オフィシャルサイトより引用)
1909年完成。ヤン・レツル氏設計。日本に現存するレツル氏の建造物は広島原爆ドームと本校正門の2件のみで、東京都歴史的建造物に指定されています。煉瓦造り(移築後はコンクリート造り)でDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-23144715328012222982019-04-09T06:15:00.001+09:002019-04-12T10:13:30.227+09:00⑫八芳園
八芳園池
八芳園池
桑原坂に接する八芳園の敷地は江戸期初期には大久保彦左衛門屋敷、そして末期には薩摩藩(砂土原藩?)島津家抱屋敷、明治には渋沢栄一の従兄渋沢喜作屋敷、そして大正期には久原房之介屋敷となり、1950(昭和25)年長谷敏司により八芳園として開業します。
明治期には江戸期の地図には無かった「渋沢池」が姿を現します。そしてこの渋沢池は喜作が贅にまかせて
造った人工池のようですが、現在の白金小学校のあたりは玉名池・鴨池から続く湿地帯であったことが想像されます。
また、三田用水久留嶋上口分水路が渋沢池に流れ込んでいたと見られ、その余水は藤山雷太邸の池(現シェラトン都ホテル敷地)を満たし、さらに玉名川の水源となっていました。
昨日訪れた際に八芳園のコンセルジュにお話を聞くと、現在池に湧水は確認されておらずポンプ駆動で水を循環させているとのことでした。また頂いたDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-66013126006603129802019-04-09T05:36:00.001+09:002019-04-12T10:13:50.906+09:00⑫自然教育園と白金長者(柳下氏)
自然教育園入り口
明治坂上あたりの里俗の名称が「狸山」と呼ばれていた事をご紹介しましたが、現在は「国立科学博物館附属自然教育園」となっている敷地は明治期は明治期に海軍弾薬庫、江戸期には高松藩主松平讃岐守の下屋敷でした。
そして、さらに以前の室町時代(1336年~1573年)、この敷地は白金(銀)長者・柳下氏という豪族の居館でした。現在も自然教育園にはこの柳下氏の居館であった当時の土塁が残されています。
この白金という地名について「小田原衆所領役帳」や江戸期の書籍にはには「白金」ではなく「白銀」と記されています。
これは柳下氏が多くの「銀」を保有していたための地名で、本来ならば「プラチナストリート」ではなく「シルバーストリート」と呼ぶべきかと思われます。
しかし、1969(昭和44)年1月1日に白金地区に住居表示が実施された際、港区は「白金:しろかね」を正式町名として採用しDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-24216916939042501452019-04-08T06:29:00.003+09:002020-02-27T10:14:18.567+09:00⑩国立公衆衛生院(ゆかしの杜・港区郷土歴史館)
国立公衆衛生院(ゆかしの杜・港区郷土歴史館)
港区白金台4丁目6-2
現在港区の総合施設として活用されている「ゆかしの杜・港区郷土歴史館」は、1938(昭和13)年ロックフェラー財団の総額350万ドル以上の寄与により設立し1940(昭和15)年に内田祥三により設計された「国立公衆衛生院」の建物を使用しています。ちなみに隣接する東京大学医科学研究所も1937(昭和12)年内田祥三の設計で調和が保たれています。
この方の設計をどこかで観たような気がしていましたが、本郷の東京大学内の設計は本館・安田講堂を初めほとんどが内田祥三の設計となっているそうです。
内田祥三はこれら複数の建築を手掛けた後、1943(昭和18)年には東京帝国大学第14代総長に就任します。(wikipediaを参照)
また1927(昭和2)年に麻布区麻布笄町(堀田坂付近:港区西麻布4-7-6)に自らDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-29768146670016177402019-04-08T06:22:00.001+09:002020-02-28T08:43:43.319+09:00⑨東京大学医科学研究所(伝染病研究所)
伝染病研究所(伝研)
東京大学医科学研究所(医科研)
近代医科学記念館
◎近代医科学記念館
http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/about/memorialhall/
東京大学医科学研究所
東京大学医科学研究所の門をくぐると、左手に見えるのが東京大学医科学研究所「近代医科学記念館」です。
東京大学医科学研究所(医科研)の前身、伝染病研究所(伝研)は北里柴三郎のドイツ留学からの帰国に合わせ、その受け皿として福沢諭吉が中心となって私財を投じ、1892(明治25)年に設立し、北里柴三郎は初代研究所長に就任します。
この伝染病研究所創立にあたってはその名称から周辺住民の反対運動が起こります。
しかし、当時内務省衛生局長だった後藤新平の決断により完成します。
この伝染病研究所は芝公園(現在の港区芝公園1-1-2:パナソニックDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-40020693260782647512019-04-08T06:05:00.003+09:002019-04-12T10:14:49.953+09:00⑧上今里橋
三田用水が今里に入って最初の橋、今里橋の上流。
【所在地名】芝区白金今里町143
【構造種別】石桁橋
【延長】5.455m
【幅員】4.236m
【面積】23.107㎡
【架設年月】不詳
【架設経費】不詳
【川名】三田用水水路
白金今里町を流れる三田用水の上流にあたるための橋名であろう。
上今里橋あたり
☆町歩き表紙に戻る☆
DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-361525195329623502019-04-08T05:43:00.000+09:002019-04-12T10:15:04.663+09:00⑦福沢諭吉墓所跡(常光寺)
浄土宗正福常光寺
今里の一角に集められたように隣り合う寺院は、元は麻布狸穴にあった増上寺下屋敷内の浄土宗子院八ヶ寺です。
しかし、その寺地に甲府藩主松平綱重(家光第三子、五代将軍徳川綱吉の兄、子は六代将軍家宣)邸地が建てられることになり、幕命により上大崎に移転しました。
余談ですが、同様に狸穴甲府藩邸建設により麻布宮村(港区元麻布)への移転を余儀なくされたのは、
・安全寺(港区元麻布三丁目に現存)
・広隆寺(港区元麻布三丁目に現存)
・広称寺(港区元麻布三丁目に現存)
・千蔵寺(明治期麻布宮村町から川崎に移転)
・本光寺(港区元麻布二丁目に現存)
などの寺院です。
この麻布宮村へ幕命による移転を余儀なくされた各寺院ですが、移転時幕府との約束により元地狸穴町にあった時の二割増で寺地を拝領するはずでしたが、実際宮村町に移転してみると、敷地は二割減となってしまったそうです。DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-87149408271072343742019-04-08T05:23:00.000+09:002019-04-12T13:43:15.391+09:00⑤白金台三丁目遊び場
白金台三丁目遊び場
三田用水遺構脇の小階段を上った先にある小さな公園「白金台三丁目遊び場」ですが、このあたりでは差し迫る変化点二題を抱えているようです。
順番が前後しましたが、三田用水遺構と今里橋の間には小さな公園と球技スペースを持った「白金台三丁目遊び場」があります。
実は今回今里を歩こうと決めたのは、二つの変化により今里町の景観ががらりと変わってしまうことが決まっているからです。
一つ目はプラチナ通り(都道418号線・環状第4号線)坂上プラチナドンキホーテ辺りで止まっていた環状4号線が今里町→猿町→グランドプリンス高輪を抜ける進延工事が決められているようで、この道路が完成すれば猿町~今里町の閑静な住宅街は一変し三田用水遺構や今里橋欄干は道路拡張により本来の流路上にある現在の遺物は姿を消すものと思われます。
◎東京都市計画道路幹線街路 環状第4号線及びそのDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-24382161898280904292019-04-07T18:16:00.004+09:002019-04-12T13:34:43.785+09:00⑥今里橋の欄干
◎今里橋の欄干
三田用水遺構脇の階段を上り、少し歩くと「白金台三丁目遊び場」への入り口に三田用水をまたいだと思われる小さな石橋があり、さらに歩くと道路脇にコンクリート製の欄干が見えてきます。これは「今里橋」の欄干で「増補港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場」にはその諸元が記されています。
◎今里橋
【所属地名】芝区白金今里町116
【構造種別】鉄筋コンクリート
【延長】3.000m
【幅員】3.300m
【面積】9.900㎡
【架設年月日】昭和5(1930)年11月
【架橋経費】556,080円
【川名】三田用水路(芝区史)
この今里橋を含めて今里町域の三田用水には「上今里橋」「今里橋」「南里橋」「猿町橋」4つの橋が架けられていたようですが、現在まで残されているのはこの欄干のみとなりました。
近年今里橋欄干に「南里橋」とスプレーで落書きをされDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-58877320282235105562019-04-07T09:14:00.001+09:002019-04-12T10:16:15.852+09:00④三田用水遺構
三田用水遺構と解説板
今里地蔵から三田用水の水路跡沿いに歩くとコンクリートで作られた「三田用水跡」と解説板があります。
三田用水の詳細は下記サイトをご覧頂くとして、三田用水は細川用水と併走して一貫して流路を保っており、このコンクリート造の水路模型もそれを再現しているのでしょうか?あるいはこの今里辺りは分水嶺となっており、この尾根の北にある古川・玉名川に落とす分水用と南の目黒川に水を落とす分水用に分けていたのかもしれません。
この分水の中で久留嶋上口分水路は一旦玉名池にな流れ込み、さらに玉名川となって覚林寺境内北上し現在の新古川橋
あたりで古川に流れ込んでいました。今でもこの新古川橋の橋下には現在も古川へと水を落とす四角い大きな合流口が残されています。
二つに分かれた流路
この三田用水分水から流れ出た水は水車を上掛けで廻すための水力として使用されました。
DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-9446067931659335492019-04-07T05:43:00.003+09:002019-04-12T10:17:16.352+09:00③三田用水南里橋・今里地蔵
◎南里橋
南里橋付近
三田用水が今里に入ってから3番目の橋、今里橋の下流。
【所属地名】芝区白金今里町・芝区白金猿町71
【構造種別】木造
【延長】2.727m
【幅員】3018m
【面積】8230㎡
【架設年月】昭和4(1929)年1月
【架設経費】137,728円
【川名】三田用水路
橋脇に今里地蔵が遷座したのは終戦後といわれています。
◎今里地蔵
今里地蔵は大正期に鈴木光三郎という鳶職が1915(大正4)年頃に上大崎一丁目辺のあぜ道でこの地蔵を見つけて、祠を作りお祀りした。
しかし1945(昭和20)年頃の道路拡張により移転を余儀なくされ、現在地に移ったとのネット情報がありますが、私がこの地蔵堂を清掃していた方に偶然お会いして伺った話では五反田田圃から白金猿町交差点付近。そして櫻田通り拡張のため現在地に移設....っとお聞きしたようなDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-86421822446047979272019-04-06T15:06:00.001+09:002019-07-20T04:42:47.123+09:00②三田用水 猿町橋・日本家畜市場跡
★三田用水猿町橋
猿町橋あたり
・三田用水の橋
今里に入ってから4番目の橋、南里橋の下流。
【所属地名】芝区白金猿町・今里町
【構造種別】単桁木橋
【延長】2.00m
【幅員】2.727m
【面積】5.454㎡
【架設年月】昭和4(1929)年2月
【架設経費】111,423円
【川名】三田用水
この猿町橋があったあたりには約200m先の「畠山記念館」の標識が建てられています。
◎荏原製作所・畠山記念館
http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/index.html
畠山記念館が所有する「細川井戸茶碗」は「喜左衛門」、「加賀」とともに「天下三井戸」と称される大井戸茶碗で重要文化財に指定されています。また、 この茶碗は麻布茗荷谷のくず屋正直清兵衛を始め正直者しか出てこない人情落語「井戸の茶碗」に登場します。
◎DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-13074780374559740092019-03-20T14:26:00.003+09:002019-04-12T10:17:53.708+09:00①高輪台駅・猿町
出発集合場所の高輪台交差点
都営浅草線高輪台駅A2出口と交番
現在の高輪台駅付近の相生坂(雉子ノ宮坂)は五反田へと下る坂ですが、坂上の旧町名「白金猿町」の由来の一つに「江戸を去る」の去るから猿への転訛とする説もあるようです。
別名:エテ町
もとは白金村のうち、増上寺領であった。午後4時を過ぎると辻切りや追剥ぎが出て人の往来がなくなったので、1651(慶安4)年に「商人町屋にしたい」と増上寺を経て願い出て許可された。1713(正徳3)年から町奉行支配となった。町人百姓入り組みの所である(砂子)。町名の由来は、白金台町を「去る」という意味で「去り町」と里俗に唱えたものが、自然に「猿町」と文字を書き替えたと伝える説(町方書上)、昔東海道の要路で南北朝期の頃、新田義貞が西に向かう時、武運を祈って帝釈天を安置したことから「申町」、つまり「猿町」になった(了真寺伝)とする説がDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-85350993809532501432019-03-18T11:32:00.002+09:002019-07-01T15:47:31.675+09:00★ 白金今里探索-まとめ
①高輪台駅・猿町
②三田用水猿町橋・日本家畜市場
③三田用水南里橋・今里地蔵
↓
④三田用水遺構
⑤白金台3丁目遊び場
⑥今里橋の欄干
⑦常光寺・福沢諭吉埋葬地
⑧上今里橋
⑨伝染病研究所(伝研)→
東京大学医科学研究所(医科研)
近代医科学記念館
⑩国立公衆衛生院~ゆかしの杜
港区郷土歴史館
⑪自然教育園と白金長者柳下氏(解説のみ)
⑫八芳園(解説のみ)
⑬聖心女子学院正門
⑭服部ハウス(戦後史)
⑮三光坂
⑯西光寺・几号水準点
⑰梅が茶屋
⑱白金氷川神社(三氷川直列)
----------------------------------------
A.四の橋・狐しるこ
(麻布七不思議)
B.夏土用丑の日考
(狐鰻の由来)
C. 麻布の橋-その2-3 字雷神下とその周辺
DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.com日本、高輪台駅35.631661 139.73032710.109626500000001 98.421732999999989 61.1536955 -178.96107900000004tag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-3686859324058773552017-10-13T09:43:00.000+09:002020-05-01T06:38:59.634+09:00麻布の小林多喜二
小林多喜二
(wikipediaより引用)
「蟹工船」などを表しプロレタリア文学の代表的な作家として有名な小林多喜二は1933(昭和8)年2/20赤坂で特高警察に逮捕され築地警察署取調室での拷問によりに死亡しますが、その直前まで麻布周辺に潜伏していました。
死亡する前年の1932(昭和7)年4月、麻布区東町称名寺(現・港区南麻布1-6)の一角にあった家(現在の本堂の敷地)の一室を間借りして伊藤ふじ子と同棲し地下潜伏がスタートします。
その後、同7月麻布区新網町(現・港区東麻布3丁目)に潜伏、同9月麻布区桜田町(現・港区六本木6丁目)に潜伏しますが、警察に桜田町の潜伏先を探知され、1933(昭和8)年、渋谷区羽沢44(羽澤ガーデンあたり:現渋谷区広尾3-17)に潜伏先を変えます。その直前に同棲相手の伊藤ふじ子が勤め先において警察に逮捕され、その一月後には多喜二自身も赤坂において逮捕DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-32942268938931969822017-06-04T07:15:00.001+09:002017-06-04T17:12:18.524+09:00青物横丁「天妙国寺」に葬られた麻布辺
顕本法華宗別格山寺院
鳳凰山 天妙国寺
先日朝さんぽの途中「今朝のお詣り」で立ち寄らせて頂いた、青物横丁の顕本法華宗別格山寺院「鳳凰山 天妙国寺(1972年までは妙国寺)」さんで出会った三つのお墓。
・お祭り佐七
・桃中軒雲右衛門
・音丸
☆その1-お祭り佐七(元久留米藩士~め組鳶火消し)
本堂にお詣りの後には久しぶりの墓域お詣り。随分久しぶりだったので「お祭り佐七」の墓域が移動していました。
落語「お祭り佐七」の筋立ては元久留米藩士・飯島佐七郎は天神真揚流柔術の免許皆伝で腕が立っての男前から女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。
天妙国寺本堂
め組は芝大門、神明宮界隈の受け持ちで増上寺門前のDEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-84528673039158488492017-05-28T15:10:00.001+09:002017-05-28T15:13:48.340+09:00★第一次東禅寺襲撃事件...外伝
英国公使館が設置された
佛日山東禅寺
文久元(1861)年の今日五月二十八日夜、高輪東禅寺に設置されていた英国公使館が攘夷派浪士により襲撃され多数の死傷者を出しました。
これは安政五(1858)年六月にアメリカと通商条約を締結して以来諸外国とも条約を結んだ事により、攘夷思想を持つものたちから強い反発を招き、外国人への殺傷事件が頻発し始めた頃の事件であり、前年安政七(1860)年1月には漂流漁民からイギリスに帰化し、苦労のすえオールコックと来日した英国通訳官の「伝吉」が東禅寺門前で刺殺され、その二ヶ月後には桜田門外の変で井伊大老が暗殺、さらに東禅寺が襲撃される半年ほど前には麻布中ノ橋で米国公使館の書記兼通訳官、ヒュースケンが赤羽接遇所からアメリカ公使館への帰途に殺害されています。
襲撃事件の詳細は当サイトでご覧頂くとして、今回はあまり知られていない裏話を二つご紹介します。
◆DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3619310417682531629.post-62430706768120923812017-05-26T11:09:00.001+09:002017-05-28T08:39:14.901+09:00★山の手大空襲の麻布
1945(昭和20)年の今日5/25深夜から26日未明にかけて、山の手地域を対象に米軍B-29爆撃機により二時間半にわたって行われた大空襲。
これによりこの爆撃は「山の手大空襲」と呼ばれています。
この爆撃により3月15日の東京大空襲、4月15日(城南京浜大空襲)に続いて港区域も大被害となりました。
この二日前にも大規模な空襲がありましたが、東京に限るとB-29による大規模空襲は5/23、5/25両日が最後となりました。
◇5月23日の被害
死者762人、被害家屋6万4千487戸
◇5月25日(山の手大空襲)の被害
死者3651名。焼失16万6千戸※初めて皇居も爆撃目標となった。
東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死
Wikipedia-東京大空襲にはこの山の手大空襲をB-29から撮影した画像が掲示されています。画像は恵比寿駅上空から霞DEEP AZABUhttp://www.blogger.com/profile/09402072986028285196noreply@blogger.com