先月麻布各所で秋祭りが行われましたが、私が住む品川区鮫洲の秋祭りは毎年お盆の8/15前後に行われています。
当初このお盆の秋祭りを、戦前までは漁師町で特に江戸期の鮫洲(御林町)は将軍に新鮮な魚を献上する「御采肴八ヶ浦」の一つのため、秋は漁で忙しいために、わざわざ8/15という日程にしたのかと思っていました。
ところが、麻布の神社も江戸期の祭礼は、多くが8/15ころに行われていたことが解りました。
以前「シーボルトの見た中秋の名月」をお知らせしましたが、この時にシーボルトはどこかで秋祭りを見ていても不思議ではなかったようです。 残念ながらシーボルト日記にその記述はありませんが、当時の太陰暦で中秋である8/15は、現在の太陽暦でいう9月中旬から下旬ですので十分「秋祭り」だったわけです。
そして新暦に変わった明治初頭、7/15の日付でそのまま残して季節としては一ヶ月早めることとなった関東地方と、新暦にあわせて単純に一ヶ月後にずらして8/15とした関西地方の「お盆」のように、秋祭りも日付に沿ってずらした地域と季節感を大切にした地域に別れたものだと思います。
鮫洲の秋祭りは、旧暦日付そのままの8/15に現在までおこなわれているという理由は冒頭でお伝えしたとおり、やはり秋は漁で忙しく、できればそれ以外の季節でしたかったのかな?と思わせてくれます。
そして麻布氷川神社をはじめ、多くの神社が季節に準じて単純に一ヶ月後にずらして行われるようになった秋祭りですが、麻布中央部の祭りとして、というより麻布鄕の郷社であった麻布氷川神社の祭礼時には、現在のように毎年という風習はありませんでしたが、8/17頃に盛大に催されていたことが多くの文献に残されています。
江戸期、おもに江戸中期以降の江戸の祭りの中心はよくテレビ時代劇で見る「威勢のいい神輿」が中心という概念とは大きくかけ離れており、祭りの中心は山車でした。各町内が競って山車を作り、その豪華さや意気を競いました。これが神輿に変わるのは明治初期で、山車の巡幸がが市中の電線などにより、物理的に不可能となって以降のことといわれています。また山車を作るよりはるかに安い金額でできる神輿への移行はつまり時代に対応して祭りが「コンパクト」になったということのようです。
このようにして行われていた江戸期の山車を中心とした巡幸がメインであった秋祭りですが、当時使用されたと思われる貴重な遺物が麻布には残されています。
それは....麻布本村町で保存されていて、かつては麻布氷川神社の祭礼に使用された二体の山車人形(素戔嗚尊・武内宿禰)と一対の獅子頭で、山車人形のうち「武内宿弥」は天保三(1832)年、獅子頭は文久二(1862)年に作成されました。これらが作成された年代は30年ほどしか離れていませんが、時代背景は大きく異なっています。
山車人形の「武内宿弥」が作られた天保三(1832)年は江戸期有数の町人文化爛熟期である文化・文政時代直後で、各町内が競い合って豪華な山車人形を作っていたものの一つであったことが想像されます。これに対して獅子頭が作成された文久二(1862)年は幕末動乱の真っ最中で、各国公使館が設置された麻布や芝各所で、攘夷派による暗殺事件などが起きていました。()
そして、本村町周辺にはアメリカ公使館、プロシャ公使館などが設置され、異人の往来も多く目撃されていたと思われます。
この獅子頭が作成された時期に横浜では生麦事件が起こり、翌年には一の橋際で清河八郎が暗殺されています。
このような時代に周辺住民は恐れおののき、祭礼時には夷狄を打ち払い元の静かな町に戻したいという願望から獅子頭を「魔除け」として練り歩いた。と想像してしまいます。
そして、これらの全く違う意図から作られた貴重な遺物が、その時代背景を静かに語りかけているような気がしてなりません。
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※追記
今回お伝えした山車人形はNPO法人
「麻布氷川江戸型山車保存会」が発足し、保存・修復に向けて活動中とのことです。
むかし、むかし1-8麻布氷川神社
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi.html#8
むかし、むかし12-198.
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi12.html#199
むかし、むかし12-199.
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi12.html#199
むかし、むかし12-200.麻布氷川神社祭礼の謎
http://deepazabu.com/m1/mukasi/mukasi12.html#199