吝嗇から貯めた小銭を餅にくるんで頓死した僧を同じ長屋の住人が見ていたことから、その住人が金を独り占めしようと下谷山崎町(現在の上野駅辺)から
なじみの破壊坊主がいる麻布絶江釜無村の木蓮寺(架空の寺ですが、本村町の曹渓寺がモデルとされています。)まで運ぶ「道中付け」がメインとなる噺です。
この道中付の麻布通過部分は、この噺を得意とした古今亭志ん生によると、
道中付比較 |
大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときには.....
ときて、
「ずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた」
と爆笑を誘います。
この話は明治期にかの大圓朝とよばれた三遊亭圓朝が創作した落語ですが、この初期の黄金餅は現在のものと大きく違っていたようです。
現在の噺では、下谷山崎町(現在の上野駅辺)の長屋から麻布絶江釜無村の木蓮寺までとしていますが、最初に創作した圓朝は、芝将監橋脇の長屋から麻布三軒家町の貧窮山難渋寺までと道中付は格段に短かったようで、更に調べるとこの話は実際にあった事件をモデルにしているようで、芝愛宕辺の長屋に住む吝嗇の僧が金を飲み込んで死んだ話がいくつかの書籍に出てきます。
圓朝創作時の移動距離は直線で2.5kmほどですが現代版は8.5kmもあり、このデフォルメは大正時代といわれ四代目橘家圓蔵が得意とし後に古今亭志ん生に受け継がれたようです。
またこの話にいわゆる「落ち」はなく、死人の腹から取り出した金を元手に目黒で黄金餅という菓子屋を開いて繁盛したと語られますが、この黄金餅は目黒に実在していたそうです。
むかし、むかし11-185.圓朝のくたびれない黄金餅