狸穴にあるロシア大使館裏手には、大正時代まで東京天文台が設置されていました。
1874(明治七)年に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した後、1888(明治21)年6月1日、帝国大学の学生用観象台と海軍省観象台と内務省地理局が統合され、帝国大学付属「東京天文台」として東京麻布飯倉に設立されました。
旧東京天文台
その際海軍省が持っていた、日本最大の天文観測施設「観象台」も引き継がれ、「天文台」に改称されました。この時から、天体観測施設の名称として「天文台」が使われることになります。初代台長は東大星学科教授の寺尾寿。創立当時の職員は6名でした。
国策としての当時の職務は、恒星の測定、太陽・彗星の観測、暦の作成などとともに時刻を報せる「報時」があった。陸軍が正午を報せるために鳴らしていた大砲(この音から「ドン」と呼ばれ、”半ドン”の語源となりました。)の時刻合わせから、明治23年以降は有線による「報時」を行ったといわれています。
その後、1923(大正12)年の関東大震災で観測機器に大きな被害を受けた天文台は、周辺の都市化が進んで空が明るくなってきたこともあり、郊外の三鷹へと移転しました。
そして時は下り、1988(昭和63)年、東京天文台は水沢の緯度観測所などと統合され、国立天文台となります。さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人「自然科学研究機構国立天文台」となり現在に続きます。
※ この東京天文台が麻布に設置されていたことを記念して小惑星に「Azabu」という名前が
付けられました。詳細は「小惑星AZABU(3290) 」をご覧下さい。
ゴーチェ子午環 |
関東大震災で受けた観測機器の被害は「子午環」と呼ばれる機
機にも及びました。
これは、メルツ・レプソルド子午環と呼ばれた機機で、天体の位
置を精密に観測できるよう工夫された望遠鏡でした。震災時に
このメルツ・レプソルド子午環は落下により修復不能の大破を
してしまいます。
しかし、当時の東京天文台はこのメルツ・レプソルド子午環の
ほかにゴーチェ子午環という機機も所持していました。この
ゴーチェ子午環は飯倉の敷地が狭かったため、1904(明治37)年
に購入されてから梱包されたまま敷地内に保管されていました。
飯倉にあった頃の東京天文台は2,500坪ほどの敷地を持っていましたが、これは斜面を
含んだものでした。そして、新しく購入されたゴーチェ子午環の使用には南北100mのところ
に子午線標が必要でしたが、飯倉の敷地ではその設置は不可能でした。これにより購入後
もずっと梱包されたまま保管されていた事により震災の被害を免れたゴーチェ子午環はつい
近まで使用され現在も三鷹の地に展示保管されています。
日本経緯度原点碑(旧) |
これまで使われてきた経緯度原点の数値は1918年に告示された「日本測地系」によるものであった。しかし、2002年4月1日に施行された現行の測量法では「地理学的経緯度は、世界測地系に従つて測定しなければならない」と定めているので、原点の位置もこれに基づいて再設定されました。
●経緯度原点(日本測地系基準)
東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148●新しい経緯度(世界測地系基準)
東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572
測量法施行令(昭和二十四年政令第三百二十二号)(抄)
(日本経緯度原点及び日本水準原点)
日本経緯度原点解説板 |
- 一 地点 東京都港区麻布台二丁目十八番一地内日本経緯度原点金属標の十字の交点
- 二 原点数値 次に掲げる値
- イ 経度 東経百三十九度四十四分二十八秒八七五九
- ロ 緯度 北緯三十五度三十九分二十九秒一五七二
- ハ 原点方位角 三十二度二十分四十四秒七五六(前号の地点において真北を基準として右回りに測定した 茨城県つくば市北郷一番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角) (平成13年12月28日公布・平成14年4月1日施行)
日本経緯度原点 |
日本経緯度原点碑(新) |
2011年3月の東日本大震災地殻変動により経緯度原点が27cm東へ移動したため、2011(平成23)年10月国土地理院により日本経緯度原点碑が再設置されました。
項 目 | 経 度 (東経) | 緯 度 (北緯) | 方 位 角 |
---|---|---|---|
震 災 前 | 139°44′28.8579 | 35°39′29.1572 | 32°20′44.756 |
震 災 後 | 139°44′28.8869 | 35°39′29.1572 | 32°20′46.209 |
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