麻布映画劇場と麻布中央劇場 |
これは、昭和30年代の麻布を舞台に主人公、小学生の「周助」が 過ごした麻布界隈の様子が克明に描写されている小説です。
周助が正介氏である事は間違い無く、ほぼ私と同じ時代を麻布で過ごした事になります。そして その「麻布新堀竹谷町」のなかで麻布映画劇場という項があり、これは大黒坂の下(現ピ-コック麻布店)にあった映画館の名です。 ここには麻布映画劇場と麻布中央劇場の2館の映画館があり、麻布映画劇場は東映の封切館で一方の麻布中央劇場は洋画館でした。
私はこの麻布映画劇場(当時はただ単に東映とい呼んでいた)に行ったのは近所の年が離れたおねえちゃんに連れて行ってもらった「わんわん忠臣蔵」(1963年作品) が最初であると 記憶しています。
調べてみるとこの映画は日本アニメ映画にとって画期的な作品であったといわれ、東映動画がディズニーを意識して企画・制作した娯楽作品であるそうです。原案・構成は手塚治虫。そして何とあの宮崎駿が同社に入社し、この映画の動画を初担当していました。
物語は、
「主人公ロックの母、メスイヌのシロがトラのキラーに殺された。 幼いロックはただ一匹で、キラーに立ち向かおうとするが、とても無理、危うく命を落とすところを、森の仲間たちに救われ、大人になるまで町で暮らすことになる。勇敢なロックは、じきに町の野良犬たちに一目置かれるようになった。恋人のカルー、それと力強い仲間を得たのだ。 これを知ったキラーの手下、キツネのアカミミは策略を使って、ロックを倉庫に閉じ込め、倉庫荒らしの犯人に仕立てた。倉庫番に捕まったロックは樽に入れられて海に投げ込まれてしまう。 その頃、森の動物たちは人間の山狩りにあって、みんな動物園に入れられてしまった。獲物のなくなったキラーはアカミミの勧めにしたがって自ら動物園に入った。そうすれば飢えないですむというわけだ。動物園のなかでも、動物たちはキラーとアカミミに苦しめられることになる。 一方、海になげ込まれたロックは幸い島の小さな女の子に救われ、養われていたが、、動物たちの運命をつばめから聞いて、いてもたってもいられなくなって島を抜け出した。 みんなとの再開を果たしたロックは、いよいよ母の仇のトラ退治に向かう。 キラーは配下の猛獣たちを動員して、雪の降りしきる動物園から遊園地を舞台に、激しい戦いが続く。 そしてついに、ロックたちに凱歌があがった。ロックとカルーを先頭に堂々と大通りを行進する野良犬たちが勇ましい。」
麻布日活館(末広座) |
また同時上映は「狼少年ケン」とのことでこちらを目当てに観に行ったことは間違いありませんが、これまた全く記憶に残っていません。
しかしわんわん忠臣蔵のテーマ・ソング「わんわんマーチ」の、
すすーめ、すすーめ、しっぽをあげて♪
というくだりは何故か いまだにはっきりと覚えています。
この他にも現セイフ-が麻布日活館(末広座)、現桂亭が麻布松竹でした。また、近隣には金杉橋に芝園館、魚籃坂の下にも2番館の京映があり。さらに以前には、一の橋に一の橋館、六本木に新興キネマ、広尾に広尾キネマ(銀映)、薬園坂の下に麻布松竹館などがあったといわれ、 まさに麻布近辺は、シネマパラダイスであったそうです。(なお魚籃の京映、広尾の銀映は故大桑氏の情報提供により館名を加筆させて頂いきました。)
冒頭にご紹介した麻布新堀竹谷町の著者山口正介氏の父であり、作家の山口瞳氏は実家が新堀町で工場を経営しており、麻布中学へは実家から通いました。
また、昭和24(1949)年5月28日、氏は鎌倉アカデミアで同級生だった古谷治子との結婚式を麻布氷川神社であげています。そして一時期サラリーマンになってからの氏はこの実家に住み、息子の正介氏は麻布で過ごすこととなりますが、済生会に入院していた瞳氏の父の逝去、そして都電通りの拡張工事、また正介氏の病状改善などのため郊外への転居をすることとなり、一家は麻布を離れます。
☆追記
この麻布映画劇場と麻布中央劇場のポスターを現在も多数保持していて、自費で「麻布十番を湧かせた映画たち」を出版なされた遠藤幸雄(麻布十番の理容エンドウ店主)氏は、昨年TV東京の人気番組「なんでも鑑定団」に当時のポスターを出品され、高額の鑑定結果を得て会場を沸かせていたのをご覧になられた方も多いと思います。
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