2012年12月11日火曜日

南麻布の寺坂吉右衛門


赤穂浪士は通常四十七士とされますが、泉岳寺に眠るのは45人しかいません。
これは、毛利家に預けられていた間新六が切腹後、親族の中堂又助に遺骸を引き取られ築地の本願寺別院に埋葬されたため泉岳寺には埋葬されていない事と、討ち入り後四大名家(細川、久松、毛利、水野)にお預けとならなかった寺坂吉右衛門がぬけているためです。 吉良邸の襲撃は確かに四十七人で行われましたが、幕府に自首をしたのは46人。寺坂吉右衛門は何故、お預けとならなかったのでしょうか.....。




寺坂吉右衛門が眠る
日東山曹渓寺
寺坂吉右衛門が討ち入りをせずに「逃亡」した。と言う説が浮上したのは、討ち入りから130年経った天保年間に儒者の大蔵謙斎が唱えた事によります。これは、討ち入り後10日経った12月24日に、大石・原・小野寺の連名で寺井玄渓に宛てた手紙と「堀内伝右衛門覚書」のなかで、はっきりと寺坂が討ち入りをしていないと記述されているのを発見したことによります。また時代は下って近世になり徳富蘇峰が「近世日本国民史・義士編」で逃亡説を採用したために、寺坂吉右衛門が討ち入りには加わらず逃亡した「不義の士」だという説が一般化しました。

しかし、昭和11年に吉田忠左衛門縁戚、伊藤十郎太夫の末裔である伊藤家から多数の資料が発見されたのをもとに、伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」が世に出されます。これによると伊藤十郎太夫の書き置きには、

討ち入り後、泉岳寺の門前で寺坂吉右衛門は大石、原、片岡、間瀬、小野寺、堀部の各氏から播州赤穂に赴く事を説得された。




曹渓寺・土佐新田藩主墓所脇
にある寺坂吉右衛門顕彰碑
とあり、大石らは後に寺坂が卑怯未練と言われるのを恐れ、一通の書状を持たせたとあります。
その後寺坂は12月15日朝四つ(午前十時頃)に一同と別れ、一同が仙石邸から4家にお預けとなったのを密かに確認してから江戸を発ち、12月29日に播州亀山に着いたとの記述があります。また翌2月3日、切腹と決まった吉田忠左衛門が伊藤十郎太夫に送った最後の手紙には、幕府からの咎めもないはずなので、寺坂のことをくれぐれも宜しく頼むという記述もあります。そして最後に、この願いは了解するにとどめて、うかつな事はいわないで欲しいと、はっきり記されているようです。




これは恐らく、討ち入り前から大石ら首脳陣が自分達の死後、事件の伝承者として一番幕府から詮議を受けにくい最下層の武士(足軽三両二分二人扶持)である寺坂に、その任を決めていたのではないでしょうか。この決定には、最下層の足軽にすぎない寺坂が、本懐を遂げるまでに耐えたという事実を大石が愛したと言う感情もあったような気がします。また討ち入り後、お預けとなった各浪士も口裏合わせのためにわざわざ、「不届き者」、「逐電」、「欠落」などと謗った形跡もうかがえます。

その後播州他で何をしたかは不明ですが、寺坂は、浪士切腹の一年後の元禄十七年二月に江戸に出て仙石伯耆守に自身の処分を願い出ましたが、「お構いなし」と言われ立ち退きます。



麻布区史に掲載された
曹渓寺の寺坂吉右衛門墓
その後、吉田忠左衛門とその縁戚である伊藤十郎太夫に仕えました。もしも逐電した武士であれば、ノコノコと元の上司(寺坂は八歳で吉田忠左衛門の世話になり、足軽となって忠勤しました)に伺候できるはずもなく、これからも逃亡説は否定されます。

 そして寺坂は、 12年間伊藤家に仕えた後に、享保8(1723)年頃51歳で麻布本村町(現在の南麻布二丁目)の日東山曹渓寺の寺男となり、さらにその後曹渓寺住職の斡旋により現在の三の橋辺にあった土佐新田藩(通称:麻布藩)山内家に仕えることとなります。そして、83歳まで長命した後の延享4(1747)年10月6日に世を去ります。

彼は死ぬまで討ち入り事件について口を閉ざしたままであったそうですが、死後寺坂吉右衛門は関わりのあった曹渓寺に埋葬され、法名は「節厳了貞信士」とつけらます。
これは、生前の寺坂が大石らから与えられた「生き残る」使命を果たし、天寿をまっとうした四十七人目の浪士の厳しかった人生にふさわしいものだと思われます。

冒頭で泉岳寺に赤穂浪士は45人しか眠っていないと書きましたが、墓自体は48基あります。
これは本願寺別院に埋葬された間 新六の墓碑、生きていれば浪士の一人となったであろう萱野三平の墓碑、そして「逐道退身信士」と書かれた寺坂吉右衛門の供養墓碑です。
この泉岳寺供養墓はもし一同と行動していれば収監されるはずだった水野家お預かりの浪士の列に加えられています。そして、寺坂の戒名には他の義士の戒名に必ず付けられた「刃」、「劔」の文字もなく、遂道退身という戒名が彫り込まれており哀れを誘います。

余談ですが、「堀内覚書」によると、浪士たちの切腹後、泉岳寺に納められた遺物(刀、脇差、諸道具)などは、泉岳寺により「売り」に出されてしまったといいますが、今残っていれば大変な社宝となったことは間違いありません。

また、五十歳を過ぎた寺坂吉右衛門は、その後三十年弱の人生を現在の南麻布で過ごすこととなったようですので、麻布とのつながりは浅くないものと思われます。





★追記



泉岳寺にある
寺坂吉右衛門の
供養墓
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により土佐新田藩(通称:麻布藩)に召し抱えられましたが、2008年12/4産経新聞によると、大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた土佐新田藩(通称:麻布藩)の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせた内容のものといわれ、これに対して、山内家の家臣が答えた書状の中で吉右衛門の三代後の子孫の当代吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと思われる)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれていました。

側頭とは主君の側近であるので、足軽であった吉右衛門から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたと思われます。

しかし、現代においても吉右衛門の行動はその秘匿性からか色々な見方があり、
赤穂市議会では平成四年十二月の市議会本会議において、

赤穂義士は四十六士か四十七士か?

という質問があり論議を呼びます。これは 平成元(1989)年に赤穂市が別冊赤穂市史として「忠臣蔵」を公刊した祭に、寺坂吉右衛門を事前逃亡と判断したことにより義士は四十六人であるとされてしまったことによります。さらに、平成4(1992)年には赤穂市長が本会議において「義士は寺坂吉右衛門を含めた四十七士」と発言しましたたが市史の訂正は行われず、追記のみとされたことから現在もこの論争はくすぶり続けているといわれています。




「節厳了貞信士」という名誉ある戒名と共に寺坂吉右衛門の本墓がある曹渓寺には麻布藩山内家歴代藩主の墓があります。そしてその山内家の墓の傍らには寺坂吉右衛門の孫「信成」が建てた「寺坂信行逸事碑」が建立されています。前述、曹渓寺の寺坂吉右衛門本墓の戒名は、


曹渓寺・土佐新田
藩(麻布藩)主歴代の墓所
節厳了貞信士

とお伝えしましたが、慶応4(1868)年に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた際の戒名は、

遂道退身信士

と、不名誉きわまりない戒名となっています。
  しかしながら、寺坂家が仕官先から末代まで重用されることとなった事、大石内蔵助から託された職務を生涯をかけて全うした事、各地の赤穂義士遺族を訪ねたことから全国7箇所に残された「寺坂吉右衛門の供養墓」があることなどからも、寺坂吉右衛門には「遂道退身」の文字は似合わないと私は考えています。


 現在の曹渓寺は観光寺ではなく、檀家のみが参拝を認められています。












寺坂吉右衛門に縁のある
日東山曹渓寺 と土佐新田藩上屋敷










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