宝暦元年(1751年)高鍋藩三万石の6代目藩主、秋月種美と正室である秋月藩黒田長貞の娘春姫の次男として麻布一本松邸に生まれ、幼名を「松三郎」その後「直松」と称し、10歳で上杉家の養子となるまでを一本松邸で過ごしたといわれています。しかし文久2年(1862年)に書かれた地図「御府内沿革図書」を見ると高鍋藩秋月邸は今の麻布高校のあたりであり、現代の感覚からすると「一本松」とはかなり離れています。
また麻布区史に「秋月の羽衣松」という項があり、一本松の別名とあります。しかし、私には、羽衣松が一本松と同じとは考えにくく、以前の秋月邸が一本松にあったか、別の銘木があったのではないかとも考えています。しかし先日、港区郷土資料館に行ったおりに、この事を学芸員に伺ったところ「昔の地名は目標物をかなり広範囲で使っている事もある」との事で事実は不明でした。
秋月家は後漢の霊帝の末裔で応神天皇の時代に帰化して大蔵~原田を名乗り、鎌倉時代に将軍家から秋月の庄(福岡県甘木市)を授かってこれを姓とします。その後、秀吉により日向の財部(たからべ)に移封されます。この時に財部(たからべ)を高鍋(たかなべ)と改めます。この地名変更は秀吉から秋月種実への移封を申し付ける朱印状の中で「財部」を「高鍋」と誤記してあったので、これにより「高鍋」と改めたといわれています。
その後、関が原の合戦では西軍として参戦しますが、途中から東軍に寝返り、家康に所領を安堵されることとなります。しかし、この時秋月の家督を継いでいた種実の子「種長」は西軍であった不安感から、慶長10年(1605年)に江戸で家康に拝謁したおり、人質を差し出す事を申し出て、これを許可されました。おそらく秋月家麻布邸が出来たのはこの時であろうといわれています。
この秋月直松が上杉家の養子となる事が決定したのは、鷹山の母方の祖母にあたる黒田長貞の正室「豊姫」が実家の当主上杉重定から後嗣が無い事を嘆かれ、相談を受けた事により、豊姫が直松(鷹山)を推挙した事に始ります。
宝暦10年(1760年)6月27日、幕府より正式に養子縁組の許可がおりた上杉家は早速、直松を養子とし、名も「直丸」と改めて上杉家桜田屋敷に入ります。しかし、この上杉家も屋敷を桜田(日比谷)、麻布台(現外務省飯倉公館)、白金に構えていたので麻布との縁は切れなかったと思われます。
しかし当時の上杉家は財政的に逼迫していて、当主の上杉重定は以前に幕府へ藩籍の奉還まで考えていました。これは、上杉景勝の時合会津120万石が関が原の戦いで30万石に減らされ、さらに三代藩主綱勝が急逝したおりに、幕府への世嗣の届け出が無かった事により、お家が断絶するところを15万石に減封されるに留まります。この時、急きょ世嗣に仕立て上げたのが、藩主綱勝の末娘で「参姫」の夫である吉良上野介の長男(後の綱憲)でした。以降、上杉家は吉良家の財政援助なども行い、また15万石に減らされても、家臣数も格式も30万石時代と同等であったので、上杉家の財政は見る間に逼迫しました。
上杉家当主の重定は明和元年(1764年)、藩籍の奉還を願い出ましたが、親戚であった尾張藩主徳川宗睦に諭されて、これを撤回します。明和3年(1766年)7月18日、重定は直丸を伴って江戸城に登城。将軍家治の御前で元服し、直丸は将軍の一字を賜って「治憲」と称し従四位下弾正大弼となります。そして重定は翌明和4年、病弱を理由に隠居を宣言して家督を「治憲」に譲り、ここで17歳の上杉治憲(鷹山)は名実共に上杉家の当主となりました。しかし藩の財政的な状況はさらに悪化しており、江戸の庶民も、新品のなべ釜の「金っけ」を取るのに「上杉弾正大弼」と書いた紙を貼ったと言われるほどであったそうです。
また、上杉家当主となっても治憲は、実家が三万石と小さな大名家の出身であるため必ずしも家臣達に快く思われていなかったようです。しかし、江戸藩邸にいた藩内の政治的反主流派である改革派の「折衷派」との接近から江戸藩邸を改革し、明和6年(1769年)初めて米沢城に入って領地内の改革に着手しますが、当時の主流派であった重臣達から疎まれ妨害されることとなります。そこで藩士全員の登城を命じ、
①自助
②互助
③公助
を柱に新規地場産業の導入などの改革案を総て語ります。
その後、長い道のりを経て旧主流派の排除、地場産業の定着、家臣の意識改革を行い米沢藩の改革は成功してゆくこととなります。そして、後に上杉家中興の祖と言われた上杉鷹山の改革を成功させたものは、おそらくトップ自らが率先して苦労する「率先垂範、先憂後楽」という思想を貫いたためであったと思われます。その後天明5年(1785年)35歳で隠居、家督を「治広」に譲るさいに「人民は藩主の為に存在するのではなく、藩主が人民のために存在する」などと説いた「伝国の辞三ヶ条」を贈り、改革の継続を命じました。
昭和に入って、時のアメリカ大統領ケネディに日本人記者団が質問すると「私が最も尊敬する日本の政治家は上杉鷹山である」と答え、鷹山を知らなかった日本人記者がいたこともあり記者団を慌てさせたといいます。
なぜケネディ大統領が鷹山を知っていたのかは、おそらく明治41年に内村鑑三が著した英文著書「代表的日本人」のなかで西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と共に5人の日本人として取り上げられていたからであると思われます。
★追記
上杉鷹山(治憲)の実家である高鍋藩秋月家は現在の麻布高校の地に敷地を持っており、がま池と隣接していました。藩邸の庭がま池の近くには滝沢馬琴の「兎園小説」でも取り上げられた五つの異石のうちの二つが存在したといいます。一つは「寒山拾得の石像」そしていまひとつは「夜叉神像」であり、特に寒山拾得の石像は秋月氏の領知であった宮崎県児湯郡高鍋町に現存します。また幕末のアメリカ公使通訳官ヒュースケン、イギリス公使館通訳官伝吉が眠る慈眼山光林寺と六本木墓園には東京における秋月家歴代当主の墓があります。
歴代 | 藩 主 | 年 代 | 関係 | 備 考 | 墓 所 |
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初 代 | 秋月種長 | 天正15(1587)年 ~慶長19(1614)年 | 種実 長男 | 関ヶ原の役では西軍だが 寝返り所領安堵 | 崇巌寺(現六本木墓苑) |
二 代 | 秋月種春 | 慶長15(1610)年 ~万治2(1659)年 | 種貞 長男 | 母は種長の娘 | 崇巌寺(現六本木墓苑) |
三 代 | 秋月種信 | 寛永8(1631)年 ~元禄12(1699)年 | 種春長男 | 財部を高鍋と改名 | 宮崎県児湯郡高鍋町・竜雲寺 |
四 代 | 秋月種政 | 明暦4(1658)年 ~正徳6(1716)年 | 種信次男 | 統治体制の整備 | 宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺 |
五 代 | 秋月種弘 | 貞享6(1684)年 ~宝暦3(1753)年 | 種政 長男 | 稽古堂を創設 | 練馬区桜台・広徳寺 |
六 代 | 秋月種美 | 享保 3(1718)年 ~天明7(1787)年 | 種弘 二男 | 上杉鷹山の父 | 麻布光林寺 |
七 代 | 秋月種茂 | 寛保 3(1744)年 ~文政2(1819)年 | 種美 長男 | 上杉鷹山の兄 | 麻布光林寺 |
八 代 | 秋月種徳 | 宝暦13(1763)年 ~文化4(1808)年 | 種茂 長男 | 生来から病弱 | 麻布光林寺 |
九 代 | 秋月種任 | 寛政 3(1791)年 ~安政3(1856)年 | 種徳 二男 | 藩政改革 | 麻布光林寺 |
十 代 | 秋月種殷 | 文化14(1817)年 ~明治 7(1874)年 | 種任 長男 | 明治維新後は明治天皇の侍読、 貴族院議員等 | 宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺 |
光林寺歴代秋月家藩主墓所 |
※ 六本木墓苑(港区六本木3-14-20)は、戦後の道路拡張で正信寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺 の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地です。
歴代藩主は所領の宮崎県児湯郡高鍋町にも墓所があり、
★ 龍雲寺 →1・3・6・7代藩主墓所
★ 大龍寺 →2・4・5・8・9・10代藩主墓所
となっているそうです。
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