1884(明治17)年 五千分一東京図測量原図 (東京府武蔵国芝区芝公園地近傍) |
この空き地に、1877(明治10)年に内務省が内外種苗の導入・試作・増殖・配布などを行うため三田育種場が開設されます。この施設は、当時盛んだった西洋農法輸入の一環として外国の種苗・農具の導入に重点が置かれましたが、1886(明治19)年に民間に払い下げられました。また、ややさかのぼる1873(明治6)年に内藤新宿試験場が開設されますが、1879(明治12)年に閉鎖されると、その内容の多くは三田育種場に引き継がれました。閉鎖後の内藤新宿試験場敷地は新宿植物御苑を経て、現在の新宿御苑となりました。
三田育種場が明治10年に開設した時に、その記念として大久保利通の強い要望で競馬が行われます。しかしこの時の競馬は和式のものだったそうです。
そして二年後の1879(明治12)年には、敷地内に正式な競馬場が設置されました。
この競馬場は一周1,200mの正式な西洋式競馬場で、その翌年に興農競馬会社が設立されると春秋2回の定期的な競馬が開催されるようになりましたが、現在のように馬券の販売は行われていませんでした。
当時、ほぼ同時期に戸山学校競馬・不忍競馬なども開催されていましたが、やはり馬券の販売は行われていなかったようで、唯一馬券の販売をする現在と同じ形式の競馬場は外国人が経営する根岸競馬だけであったそうです。
江戸期の同所 |
この競馬場は明治13年に東京談農会が発足し、明治14年には、明治8年に発足した開農義会、さらに明治12年下総牧羊場で発足した東洋農会と合流して大日本農会が発足します。しかしその後、西洋の種苗の輸入、西洋の農具の製作が下火となり、明治22年には農場自体も民間に払い下げられ、1890(明治23)年競馬場も廃止されました。
余談ですが、三田通りを挟んだ反対側の旧久留米藩有馬邸も競馬と関係があります。
戦後の日本中央競馬会理事長であり、また元の久留米藩主有馬家の第15代当主である有馬頼寧が提唱し、当時始まったばかりのプロ野球のオールスター戦を競馬に導入した大レースが1956(昭和31)年に開催されました。しかしその直後に提唱者の有馬頼寧が急逝したので故人の偉業をしのんでレース名とした「有馬記念」は現在も続いています。
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