2012年12月9日日曜日

ニッカ池(赤穂浪士)

この項を書いた十数年前、現在の六本木ヒルズの一部はテレビ朝日放送センタ-と呼ばれていました。
このテレビ朝日放送センタ-駐車場の入り口を入ると正面には大きな池があり、敷地は私が子供の頃はニッカウイスキ-麻布工場であったので、里俗に池は「ニッカ池」と呼ばれていました。そして、当時塀で囲まれたこの工場敷地へ忍び込み、ニッカ池でザリガニをとって遊んだ先輩もいました。
ニッカ池のほとりにあった解説板

このニッカウィスキー工場があった敷地は、江戸時代は長州毛利家の支藩で長府毛利家の屋敷でしたので、テレビ朝日の敷地となったのちにも池のほとりに石碑があり、赤穂浪士が切腹した場所だと記されている高札が掲げられていました。

元禄十五(1702)年12月14日、吉良邸への討ち入りを遂げた赤穂の浪士たちは、高輪の泉岳寺で主君浅野内匠頭の墓前への報告後、愛宕下の大目付仙石伯耆守久尚邸に移され、そこで大名4家へ御預けの申し渡しを受けました。

・細川越中守邸(三田).......大石内蔵助以下17名。

・松平隠岐守邸(愛宕下).....不破和右衛門以下10名。

・水野監物邸(芝増上寺あたり)...矢頭右衛門七以下9名。

・毛利甲斐守邸(麻布日ケ窪) ....岡島八十右衛門以下10名。
ニッカ池ほとりの赤穂浪士碑
この4大名の人選は、浅野・吉良両家につながりを持たない公平な立場を考慮したものによるといわれています。
その中で、このウィスキー工場の敷地であった長府毛利家上屋敷の毛利甲斐守は15日の礼日のため諸大名と江戸城に登城中で、細川越中守、水野監物と共に仙石伯耆守より浪士引き渡しの申し渡しをうけ、自身が受け取るべきか等子細な打ち合わせを行ったそうです。(ちなみにこの日、松平隠岐守は病のため登城を見合わせていました。)そして長府毛利藩の家老田代要人、物頭原田将監ら総勢200人を泉岳寺に向かわせます。

豪雨の中受け渡し場所に指定された泉岳寺門前で待機していると、御徒目付3人が仙石伯耆守邸に変更したことを告げます。これは、吉良の一族、特に妻の実家で吉良上野介の実子が当主となっており、その子息がまた吉良家に養子に出されるという多重の縁戚関係で強い絆を持った名門の上杉家が浪士を襲撃する恐れがあったので、面倒を避けるため老中が下したといわれます。
(実際に上杉家櫻田上屋敷と飯倉中屋敷には家臣が武装して待機していたといわれています。)

仙石伯耆守邸では、4家合わせて1500人の受け取り部隊の中、細川、松平、毛利、水野という順序で浪士が引き渡されて行きました。毛利家は、大事をとり搬送中、普通の御預人と同じ扱いで駕籠に錠をし、縄もかけるという罪人同様の厳重な警備であったので、庶民から非難を受けることとなります。毛利甲斐守邸に預けられた10名は以下の通り。


岡島八十右衛門...札座勘定奉行.......20石5人...三十八才

吉田沢右衛門....蔵奉行..........13両3人扶持.二十九才

小野寺幸右衛門...部屋住.................二十八才

勝田新左衛門....札座横目.........15石3人... 二十四才

倉橋 伝助 .....中小姓近習、扶持奉行...20石5人...三十四才

杉野十平次.....札座横目.........8両3人....二十八才

村松喜兵衛.....扶持奉行.........20石5人...六十二才

前原 伊助 .....中小姓近習・金奉行....10石3人...四十才

間 新六郎 .....部屋住.................二十三才

武林 唯七 .....馬廻...........15両3人...三十二才


六本木ヒルズに設置された解説板
 一同は長府藩日ヶ窪上屋敷邸内(現六本木ヒルズ)の長屋に収容されました。長屋は往来に面した方には板を打ちつけ外を遮断し、一人ずつ屏風で囲われました。衣類を改め、軽い食事を与えられて最初の一夜を送ります。

そして16日に毛利家用人内藤角左衛門から老中稲葉丹後守用人岡田半右衛門に浪士の取り扱いに対する髪結、たばこ、料紙、扇、医者、毛抜きの使用、火事の場合の対処など子細な伺いをたてました。しかし返書はもらえず、浪士たちは死を覚悟して逃げ隠れしないはずなので、然るべく適当な扱いをすべしという指示だけが老中よりもたらされます。これにより一人ずつ囲っていた屏風も5人づつとし、食事は二汁五采、昼には茶菓子も供されるようになりました。
そして酒も自由で火鉢も持ち込まれ、太平記等書物も与えられ寝具、行水など気配りの届いた扱いとなり29日には藩主毛利公の接見挨拶も行われました。
討ち入り時に軽く負傷した武林 唯七、腫れ物の前原 伊助 、瘡のできた岡島八十右衛門などの処置も用人から老中へ伺い書を提出し、内科医菅玄理、外科医藤井良菴らによって治療後快癒します。このように浪士への待遇は諸家と比べても遜色なくむしろ本家萩藩や末家清末藩からの応援など、行き過ぎの感もあったようです。

正月を過ぎても浪士への処断は決まらなかったそうです。庶民は討ち入りを快哉事とはやし、幕府側の室鳩巣らの儒学者たちも前代未聞の忠義と賞賛しました。が荻生徂徠の建議書などにより評定所の論議が決まり武士としての死、切腹が与えられる事と決まります。

これにより、毛利甲斐守邸には2月4日昼九つ半すぎに御徒目付、御小人目付により切腹の奉書が届けられ、追って検使御目付鈴木次郎左衛門、御使番斎藤治左衛門が到着しました。
毛利家 家老田代要人、時田権太夫が玄関口で出迎え藩主 毛利甲斐守綱元が玄関で挨拶。使者は、浪士一同の支度を促し介錯人の氏名、年齢を提出させます。その後両人は、切腹の場所を検分し、狭いので大書院の庭に変更させました。そして二汁七采の食事が運ばれたが、両人は固辞し餅と濃茶に改められました。その間、原田将監が浪士の長屋に赴き使者の到来と衣装の支度をし、整ったことを使者に伝えました。

そして、呼び出しにより一人づつ駕籠に乗せ御手廻り2人、棒突足軽2人を付けて使者の間へ運び御沙汰書の宣告が行われました。その時の順は岡島、吉田、武林、倉橋 、村松、杉野、勝田、前原、間、小野寺であったそうです。

当初、扇子を持たせて刑を執り行う予定でしたが、検使の注意により小脇差しを使用する事に変更されました。この元禄当時、切腹は扇子を腹に突き立てる真似をし、その瞬間に介錯するのが一般的であったそうですが、この時は、栄誉と尊敬のための温情の措置から小脇差しを使用する事を許されたものと思われます。

切腹は今日の午後5時ころ呼び出しの順で始められ、午後7時ころに終わっています。ほとんどの浪士が斬首同然の切腹であったそうです。しかし間 新六郎のみは、突き立てた後20センチも横に引いた文字どうりの切腹を行ったため、検使をはじめ居合わせた人々が驚嘆したといいます。

刑の執行後、毛利家は遺骸・遺品についても幕府に子細な指示を求め、高輪の泉岳寺に葬る事が決まります。が間 新六郎の親戚、内藤又助から遺骸引き取りの願いが出され、翌日許可がおりて間 新六郎のみは泉岳寺ではなく、築地本願寺に埋葬されることとなりました。現在泉岳寺にも間 新六郎の墓がありますが、これは、納骨されていない供養墓とされています。そして討ち入りの後失踪したと言われ寺坂吉右衛門は83歳まで生きて延享4年に亡くなり、麻布本村町の曹渓寺に埋葬されました。この寺坂吉右衛門の泉岳寺の墓は慶応4年6月に芸州藩御用商人三人が寄進した供養墓との事です。つまり、泉岳寺四十士の墓で実際に遺骨が納められているのは、この寺坂吉右衛門と間新六郎を除いた四十五名となります。
改修され毛利池と名付けられた
ニッカ池

そして、この切腹か行われてからおよそ150年後、藩邸長屋で馬廻役の乃木家に一人の男の子が生まれ、池のほとりの井戸で産湯をつかうこととなります。その子の名は希典といい、後の乃木希典将軍となります。
乃木希典は幼少期には、毎月父に連れられて泉岳寺に参詣したと伝わります。これは、泉岳寺が長府藩主毛利家の菩提寺であったためで、希典の父は前藩主の月命日に必ず泉岳寺詣でを行い、その時に藩邸内で切腹した赤穂浪士たちへの参拝も必ず行って、その後に藩邸に伝わる赤穂浪士切腹の様子を語ったといわれています。これにより少年乃木希典の死感が形成されていき、晩年の明治帝殉死へと繋がるのではないかと想像されています。