2013年1月11日金曜日

末広池



永坂町及坂下町近傍図の末広池
1883(明治16)年に陸軍参謀本部が作成した地図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」を何度かご紹介してきましたが、この地図には江戸期のものとは違い標高点・植栽種類・池・沼・坂名・地名・建物種別など、ほぼ現在の地図と変わらない細かい記述があります。特に池や沼などの水源地についてはごく小さなものまで正確に記載されており、これを見ると当時の麻布中央部には無数の水源池が存在し、特に宮村町周辺には、がま池・ニッカ池(毛利池)・原金池以外にも多くの池が集中していたことがわかります。


その中で、ががま池・ニッカ池に次ぐ規模の大きな池が十番商店街(現在のグルメシティ麻布店裏手あたり)にありました。その池は末広稲荷神社(現十番稲荷神社)の脇にあり、がま池の約1/4、ニッカ池の1/3ほどの規模であったようです。 
この池には名称が記載されていないので当サイトは独断で「末広池」と呼ぶこととします。 この末広池は十番商店街に隣接していたためか、明治の早いうちに埋め立てられたと思われ、この陸軍参謀本部地図以外に描かれているのを目にしたことがありません。しかし、江戸末期の一本松坂の居酒屋を舞台にした小説「女だてら 麻布わけあり酒場」には、わずかながらこの末広池が「暗闇沼」という名称で描かれている。

グルメシティ麻布店裏手が末広池跡
<池付近の岡場所>

このサイトを開設した1998(平成10)年当初にお知らせした「むかし、むかし1-10 原金の釣り堀」文中で、
この池(原金池)のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んでき 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。
とお伝えしましたが、どうやらこの打ち壊しがあったのは原金池(現在の六本木ヒルズ住宅棟辺り)ではなく、この末広池であった可能性が高いとおもわれます。
この間違いは、私が宮村町で生まれ育った昭和30年代当時は「藪下(やぶした)」という宮村町里俗の字名が現在の六本木ヒルズ住宅棟辺りのみを指す地名であったことに起因し、

藪下+池=原金池

と短絡した結果でした。しかし、調べ直してみると江戸期の「藪下」はもっと広い地域の名称であったということがわかりました。
○ 文政町方書上-宮村町

一、里俗藪下と申すわけ相知れ申さず候。もっとも宮村町一円に相唱え申し候。





○ 麻布区史-宮村町

町内一円を里俗に今も藪下と称している。





○ 異本岡場所考-藪下

里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也





○ 角川 日本地名大辞典-藪下

江戸期の麻布宮村町一円の俗称名称。





○ 東京35区地名辞典-藪下坂

桜田町から宮村町北部へ下る玄碩坂の別名。坂下一体は俗に「藪下」と呼ばれた低地で、そこへ下ることに因む坂名。





○ 道聴塗説-藪下

麻布大明神、今は氷川と称す。北に当て宮下、又は藪下とて~(略)。





○ 岡場所図絵-藪下

麻布宮村町、同宗英屋敷、同貞喜屋敷を里俗藪下と呼びたり~(略)。





池の大きさ比較
このように藪下の地名は暗闇坂下周辺にも及んでいたと思われ、末広池のほとりに江戸末期存在した下級の岡場所について「江戸 岡場所遊女百姿」(花咲一男著)には、 
享保五(1720)年二月廿九日、一、藪下稲荷(※推定:末広稲荷)前。とあれば、当時既に繁盛せしを知るべく延享三(1746)年八月十一日、御手入の節召捕られし売女ぎんといひし者、川中の数にも入らぬつとめにて、うきことのみにはづれざりけり。とよみし由、見聞雑記に見えたり。当所安永度には四六の大見世五十文の切見世なりしが、後やや衰えて、文政度には百文の切見世となりぬ。天保八(1837)年(花散る里には天保十年四月十五日。大郷信齋は文政七、八年という)久留米候の中間と口論より事起り、終に断絶するに至りぬ
とあり、延享年間に行われた幕府の手入れで捕縛されたこの池の畔の岡場所の遊女「ぎん(別説では「けん」)」が、それまでの無数の商売により「浮事の身」に落ちてしまっと記されています。

また天保年間におきた赤羽橋に藩邸がある久留米藩中間によるこの岡場所の「打ち壊し騒動」について麻布区史は「異本岡場所考」を引用して、
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
と記して、打ち壊し後にこの池畔の岡場所は二度と再興せず、跡は野原に戻ってしまいそうな様子が記されています。
(※推定事項はすべてDEEP AZABUの解釈です。)



<当時の狂歌>
藪下へ 出る化け物は 切り禿かむろ

十番の わきに子捨てる やぶもあり




その他、この末広池以外にも江戸期の麻布およびその周辺には下記などの岡場所が存在したそうです。

○ 高稲荷(別名:三田稲荷・世継稲荷)

永坂の途中更科蕎麦・高稲荷辺にあった見世。妓級は四六見世・五十文の局見世。
天明の此局見せにて五十文より客呼と云、色里名鑑に云、高稲荷此處に住けり、毛色四六して人をばかし斯あれば四六見世共有しと見えたり(異本岡場所考)

「眉の毛をしめせど場所が高稲荷」と詠まれた。





○ 森元町







○ 市兵衛町







○ 古川端







○ 芝明神







○ 三田三角







○ 赤坂氷川前




























<大正期~現在の池跡地>

大正期には末広稲荷前で池のあったあたりに「末広座」芝居劇場が出来、関東大震災直後の1924(大正13)年1月には震災により損害を受けた明治座がこの末広座を借りて「明治座」公演を行いました。そして戦後にはこの末広座は映画館として繁昌し、映画衰退後には麻布十番で初めてのスーパーマーケット「セイフーチェーン」が開業、その後スーパーマーケットの経営はダイエー系の「グルメシティ麻布店」となり、現在も引き継がれています。

現在この末広池の痕跡を残すものは何もありませんが、港区が作成した「浸水ハザードマップ」には細流合流点・掘留跡と共に末広池周辺が、集中豪雨などの大雨が降ると1~2mの水深となってしまうことが掲載されており、あくまでも想像ですが、湧水地点は現在も生きており、その湧水と雨水が下水道に流れ込むために水深が高くなってしまうとの推測も考えられるのかもしれません。

余談ですが、「港区浸水ハザードマップ」では浸水地域としてマークされているこのあたりも、液状化マップ では「液状化がほとんど発生しない」地域となっており、安政大地震・関東大震災でも周囲に比べて被害が少なかった麻布中央部が、武蔵野台地の突端であることから来る地盤の強固さを改めて思いだし、その自然の地形に感謝する必要があるのかもしれません。