芳川顕正は、天保12年(1841年)12月10日に阿波の国(徳島県)麻植郡川田村で原田民部の4男として生まれました。18歳で史・漢・三国史を学び、その後医学を学び文久元年(1861年)医師高橋文昨の長女と結婚、養子となり長崎に遊学、長崎で医学の塾頭をしながら英学を学んだ後に徳島に帰って士籍に取りたてられます。
その後藩主、蜂須賀斉裕の命で再び長崎に官費生として戻り、明治元年(1868年)、藩からの召還を拒んで鹿児島に行き、医者をやめ海軍で翻訳に携わり姓も芳川と改めて「越山」と号します。
明治3年(1870年)伊藤博文に従い渡米。帰国後、外務少輔、東京府知事、外務大輔を歴任。その後も内務次官、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを務め、その功績により子爵、後には伯爵を授かることとなります。しかし大正6年3月7日娘「鎌子」の事件により内大臣を辞去。その後も枢密顧問官、皇典講究所長、国学院大学長などを務め、大正9年(1920年)1月10日没しました。
この芳川顕正が明治のはじめに大蔵省書記官であった頃、芳川は大蔵省の部下であり最も目をかけていた長尾氏に「美人であれば実家は貧乏でも構わないから省の仕事よりも、早急に妻となる女性を探せ。」と妻の候補探しを命じています。この時、高橋文昨の長女と何故、離別していたのか不明だが、とにかく部下に妻の候補を探させたこととなります。
栄久山大法寺(大黒天) |
妻の候補探しを命じられた長尾氏は、これを出世の糸口と喜んで引きうけ、まわりの官員達も羨望のまなざしで長尾氏を見つめました。しかし親戚知己、出入り商人などあらゆる所に声をかけますが、なかなか適当な女性が見当たませんでした。日々芳川からの催促が厳しくなり、当初の「出世の糸口」が「首をかけた仕事」に変貌して、やつれ果てた長尾氏が「土地の神様に願をかけてみては?」というの申し出から麻布十番の 大黒様(栄久山大法寺)に日参をします。
※大黒様とは日蓮宗・栄久山大法寺(港区元麻布1-1-10)のことで、この寺の尊像が伝教大師作「三神具足大黒尊天」であることにちなみます。この尊像は享保15(1730)年六本木の旧家伊勢屋長左エ門がある夜霊夢により授かったものを大法寺に奉納したと伝わっています。
これにより現在の港七福神巡りの大黒天として知られています。
そして満願の日、長尾氏がいつものように大黒様に行ってみると、境内の休み茶屋でお茶を飲んでいる母親と供に座っている美しい娘が目にとまりました。これは!と思い近づくと茶屋の婆と親子は懇意な様子で、どうやらしんみりと別れの挨拶をしているところでした。
この母娘は元武家で、東京での生活が成り立たなくなって「知行地」に都落ちする事を涙ながらに語っていました。
この娘なら芳川のめがねに叶うと「つかぬことをお伺い致しますが.....。」と親子に話しかけ、その流れでそれとなく芳川の妻探しを打ち明けると、母親は「そう言う方に娘が貰われたら、この上もない出世です。こんな嬉しいお話はありません。」との喜びようでした。
早速帰って、芳川に話すと「そういう境遇の女なら、かえって良い。妻に申し受けよう。」と話がまとまり、吉日結婚式がとり行われました。その後、長尾氏は肩の荷が下りて「もうこりごり」と言ったといいますが、その後本当に出世したのかは不明です。またこの女性が芳川鎌子の母親にあたるかどうかはわからないそうです。この話は「幕末明治女百話(下)」に掲載されていました。
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