2013年1月31日木曜日

新島襄の鳥居坂訪問

以前、NHKドラマ「八重の桜」にちなんで麻布と保科家の関係をご紹介しましたが、今回は八重さんの夫、新島襄と麻布にまつわるお話です。

1883(明治16)年の麻布中ノ町
1888(明治21)年四月二十二日、新島襄は井上馨の鳥居坂邸を訪れます。これは新島が同志社大学の設立資金を集めるために上京したことによる訪問で、旧知の井上馨邸では渋沢栄一などに面会し、資金援助を依頼したといわれています。しかし面談の途中から体調を崩し、井上邸からも近い麻布中ノ町の粟津邸で静養しますが、この時に何度となく井上は新島を見舞ったといわれています。
この粟津邸とは後に霊南坂教会の元となる日本教会を自邸に設立した元海軍兵学校教頭で、明治時代のプロテスタントの教会指導者である粟津高明の屋敷だと思われます。この敷地にあった教会は、粟津が設立した日本教会と新島襄の最期を看取った小崎弘道が開設した新桜田教会が1882(明治15)年合併し、同所の旧日本教会を使用して東京第一基督教会となります。そして、1886(明治19)年、この教会が手狭になったため赤坂に移転して「霊南坂教会」となります。
新島が療養したのは、この教会が霊南坂に移転して2年後ということになります。

栗津邸で療養のため一月を過ごした新島は、6月中旬まで鎌倉の保養院で静養後、十四日に再び麻布中ノ町の栗津邸に戻ります。そして新島は同志社大学の通則草案を井上に見せて、意見を聞きます。また、7月19日には当時の外相大隈重信を官邸に訪ねて、渋沢栄一岩崎弥之助・その他の有志家を招いて大学創設資金の寄付を勧誘し、三万二千円の寄付を集めることに成功します。また一方井上は新島を東京日々新聞に紹介し、新聞を利用して一般からの募金を募ることを提案しています。
しかし、新島の体調は思わしくなく、7月24日から療養のため群馬県伊香保へと向かいます。その後やや回復したので短い東京での療養後京都に戻り、後に神戸での療養生活に入ります。そして病身を押して関西での資金調達を行い、井上とも度々意見を交換しています。しかし1890(明治23)年1月23日療養先である神奈川県大磯の旅館・百足屋で徳富蘇峰、小崎弘道らに看取られながら急性腹膜炎で死去します。享年四六歳。新島は死に臨んで妻八重子、徳富蘇峰、小崎弘道へ遺命として井上馨への書簡を依頼しました。その内容は、

謹テ告別申上候。是迄同志社大学の為メニハ不一方御高配被成下候儀奉感佩候。小生没後モ
行末長ク御心ニ懸ケ被成下度、乍此上懇請申上候

明治廿三年一月廿一日
新 島  襄

井 上 伯 爵 殿

と井上馨への告別と感謝が綴られていました。















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