以前「笑花園と仙華園」でもご紹介した「新撰東京名所図絵」ですが、麻布区は巻ノ一、二の2冊からなり、発行は明治35年となっています。その内容は、当時の様子を伝えるすばらしいもので町名、寺、の由来から地図、挿し絵まであり、特に挿し絵は麻布関係の本に多用されているようです。(狸穴坂、氷川神社等、何度も観た事のある絵がありました。)そして、この本でしか書かれていない(と思われる)事がいくつか見つかりました。その中の一つが「文七元結(ぶんしちもっとい)」の起源地説です。
元結とは、元来「もとゆい」と読むのでしょうが、江戸っ子は「もっとい」と訛って読みました。これは、江戸時代髷(まげ)の根元をくくるのに用いたもので、糸、紐もありますがのちに和紙を強く縒って作られた「こより」の長いものが一般的になりました
文七とは原料の紙の名とも発案者の名ともいわれていますが、「新撰東京名所図絵」によると、
「武江年表寛文十二年の項に麻布永坂下で始めて元結を製す。」とあり、「注」には、
「永坂六本木の手前麻布へ下る坂の下にて。文七元結とて名物の元結を拵(こしら)えるよし云へり。世事談に。文七と云ふは。元結に拵る紙の印の名なりと云へり。」とあります。また、武江圓説にも、
「永阪、六本木手前麻布へ下る大久保加州候と。大田原山城候の間の阪なり。右坂の下にて。文七元結を製す。文七といふ者拵初るといふにはあらず。元結に拵る杉原紙の印の名なるよし。」とあり、永坂下のあたりで発案された事が記されています。
ちなみに麻布の歴史を調べるバイブルともいえる「麻布区史」はこの文七元結について、
永坂の下は文七元結、即ち今日用ひられる元結が始めて製造されたところである。
武江年表寛文十二年の條に、
「始て元結を製、紫の一本に、永坂、六本木の手前、麻布へ下る坂の下にて、文七元結とて名物の元結を拵(こしらえ)るよしいへり、世事談に文七といふは元結に拵る紙の印の名なりといへり、類柑子
文七にふまるな庭のつぶりといふ句見え、また文七と云う元結こきの事いへるは、紙の名を直に製しし人の名に用いるなるべし、其角が茅場町の住居の隣にて元結を製したることも見ゆ」
とある。又「武江圓説」にも、
「永阪、六本木手前麻布へ下る大久保加州候と大田原山城候の間の阪なり。右坂の下にて文七元結を製す。文七といふ者拵へ初むるといふにはあらず、元結に拵る杉原紙の印の名なるよし。」と記してある。
これによると文七と云ふのは元結職人の名ではなく原料紙の名称のやうであるが、前記の類柑子の句に依ると人の名としか思はれない。
などと記されています。
この永坂近辺には坂の東側に植木坂があり、この坂の由来は下級武士が内職で行っていた植木栽培からついたといわれていますので、もしかしたら元結製造も同じような発祥なのかもしれません。また一説には金魚の養殖も下級武士の内職から始まっているといわれており、武家人口の多かった麻布においても、それらが発端であったのかもしれません。
江戸末期の永坂近傍
ちなみに落語の「文七元結」は本所達磨横丁の左官の長兵衛が一人娘”お久”の親孝行でこしらえた大事な金を吾妻橋で身投げしょうとしていた若い男にあげてしまい、それが縁で若い男文七とお久が結ばれ、麹町貝坂に文七元結元結の店を出すと言う人情噺ですが、この噺には全く麻布は登場しません。しかし、この文七元結という名称が麻布で発祥したと思いながら噺を聞くのも一興かもしれません。
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