2013年2月28日木曜日

二.二六事件・外伝その2(龍土軒)

龍土軒があった場所の現在
麻布新龍土町12番地にあった「龍土軒」はフレンチの草分であり創業は明治33(1900)年といわれています。明治から昭和期にかけて文人・洋画家・高級軍人などのサロンとして評判となっていましたが、柳田国男邸に集まっていた「土曜会」の田山花袋、蒲原有明、国木田独歩らが龍圡軒に集会所を変更して、明治39(1906)年 5月から「龍土会」と称しました。また後年の大正4(1915)年には、岩野泡鳴、徳田秋声、近松秋江、小山内薫らによる第二期龍土会の会場として使用されりようになります。
そして、場所的に第一連隊(現東京ミッドタウン)と麻布三連隊(現国立新美術館)に挟まれた地域にあった龍土軒は、高級将校や将官なども頻繁に使用し、中でも乃木将軍は贔屓にしていたようで来店の他にも、店からほど近い自邸(乃木坂)の来客時には龍土軒から出前を取ったといいます。 また昭和期には歩一、歩三、近歩三からもほど近いため、二.二六事件首謀将校の謀議なども軍人客が多くかえって目立たないため、この龍土軒で行われていました。

昭和44(1969)年「龍土軒」は西麻布交差点付近(西麻布1-14-3)に移転しましたが、さらにビルの高層化建替え工事により、2010年9月現店舗のリニュアルオープンとなりました。


終戦後の龍土軒
この龍土軒で密議をこらした二.二六事件首謀将校でしたが、店主によると会合時の注文は至って質素な内容で、料理を1品程度注文するか、茶菓程度しか提供されなかったとのことです。しかし店主はそのような使用方法でもいやな顔もせずに場所を提供していたそうで、これは「軍人の主義主張は商売とは関係なし」としながらも店主は生真面目な蹶起将校たちを好ましく思っていたことからの厚遇とされています。そしてその支払いも所属連隊の経理課経由月末決済で各自の自腹でおこなわれていたようです。
当初将校たちの集会目的は「相沢公判を聴くの会」と呼ばれる永田軍務局長殺害事件の公判についての会合でしたが、裁判が傍聴禁止となって情報が入らなくなったことや、自分たちの所属する第一師団の満州派兵が間近に迫ったことからやがて会合の性質が変化したといわれています。
そして最後の集会は参加を逡巡する安藤大尉に蹶起参加を迫る内容であったといわれており、実際にも遠藤大尉が蹶起参加を決心したのは直前の2/22日といわれています。しかし、一方では安藤大尉が中隊長を務める歩兵第三連隊第六中隊は別名「宮様中隊」とも呼ばれていたとおり過去に秩父宮が中隊長を務めていたことがあり、安藤大尉はこの青年将校たちの主張に肯定的であったとされる秩父宮に可愛がられていた関係があるとされており、蹶起への参加決意はもっと早い段階で行われていたとの説もあります。

元地竜土町で建て替え後の龍土軒
この秩父宮は赤坂御所に住んでおり、特別な行事の際には龍土軒からの出前を好んでいたといわれています。そして安藤大尉は夜の連隊長と呼ばれる「週番指令」の立場にあったので、安藤大尉の参加なくしてあのように多くの兵員を麻布三連隊から出すことは不可能であったと思われます。このようにして龍土軒を多用した蹶起将校たちですが、2/12の会合では憲兵が内偵に入り、以降集会は栗原中尉自宅などが使用されます。

安藤大尉が最後に龍土軒を訪れたのは2/19深夜といわれています。安藤大尉は店に入り店主が不在と聞くと店主夫人を呼び、店から融通されていた借金の清算を済ませます。そして何故か外套のボタンの修繕を店主夫人に依頼し、謝辞を言って帰ったそうです。そして翌日にはやはり歩三の坂井が私服で店の前にたたずんで、店主の息子に「元気でな」と別れを告げたそうですがこれらは彼らなりの送別の意味があったのかもしれません。そしてこれらから店主は蹶起が近いことを察したようですが、全く口にはださなかったそうです。そして事件当日早朝に大勢が店の前を通過する音を聞いたのが彼らとの最後となったそうです。
事件が勃発し、収束すると龍土軒にも縁のある文人たちが蹶起将校を、

○吉川英治

    くにたみは歌うたふよりすべもなく
         戒厳令下 春いかんとす

○北原白秋

    直に射つ銃をそろへてありしとき
         兵らいづくをか ねらいさだめし

○斎藤茂吉

    号外は死刑報ぜりしかれども
         行くもろつびと ただにひそけり
  
西麻布に移転後の龍土軒
などと詠みました。
蹶起から約五ヶ月後には中核将校の死刑が執行され、心を痛ませつつも龍土軒の店主はその成仏を祈るしかありませんでした。

事件の翌年7月12日の夜、一人の僧形の客が竜土軒を訪れました。その客は食事を済ませると店主を呼び、自分が栗原中尉の父親であることを小さな声で名乗りました。そして、

自分は事件の後に賢崇寺の藤田師の導きで仏門に入り「如山」と号していること、
今日が銃殺から一周忌であること、
遺品の中に密かに龍土軒宛に託された紙包みがあること、

を告げました。その紙包みの中は和紙に書かれた寄せ書きで、





龍土軒ノ為ニ残ス

百千度この土に生れ皇国に
             仇なす醜も伏しすくはむ
渋川光祐(善助)
憤焰冲天林少尉
正繁田中勝
鬼哭愀々丹生中尉
比家嘗壮士集
       正大之気発生
栗原中尉
理非法権天香田大尉
忠義 坂井中尉
大義不滅天地間中橋中尉
大君の御代をかしこみ千代八千代
            万歳万歳万歳
高橋少尉


昭和十一年七月十二日
午前三時










と記されていました。
死刑執行直前の寄せ書きに竜土軒の店主は目頭を熱くしたそうですが、
いくら捜しても安藤大尉の名はなかったそうです。







※ 龍土軒の名称に使われている「土」は 本来旧字の「土」に「、」がついた「圡」ですが、
  この漢字は機種依存文字のため便宜上「土」を使用しました。

   


     龍土軒 → 龍圡軒


















西麻布で立て替え中の龍土軒










休業説明板



















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二.二六事件・外伝その1