2013年2月16日土曜日

福沢家の墓所2



麻布山善福寺福沢家墓所
麻布山善福寺福沢家墓所には、
①福沢諭吉・お錦夫妻の墓碑  ②福澤百助之妻阿順之墓と書かれた諭吉の母の墓碑、そして③「福澤氏記念之碑」があり、さらにこれら福沢家墓碑の他に
正面右手にはやや小ぶりの墓で、④「高仲熊蔵・はな夫妻の墓」があります。




明治三四年1901年福沢諭吉が脳出血により逝去麻布山善福寺にて葬儀後上大崎に埋葬されたおりに建てられたもの。
明治 六年1873年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てたもの。
明治 七年1874年福沢諭吉の母お順が歿し、三田龍源寺の墓所に埋葬されたおりに建てられたもの。
明治四三年1910年福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死して白金重秀寺に埋葬されたおりに建てられたもの。
 

 









①福沢諭吉は遺言として自身を上大崎に葬る際に、墓碑は母の墓と同じ60cmほどの大きさにしてほしいと生前周囲の者にいっていましたが、それと同じでは後々塾関係者が墓参の際不都合も多かろうとの判断から、一般のそれと同程度の高さ一メートル強(約三尺五寸)の墓石となったようです。
墓碑右側面には福沢諭吉の戒名など、大観院獨立自尊居士/天保五年十二月十二日生於大阪/明治三十四年二月三日歿於東京/齢六十八歳
墓碑左側面には福沢錦の戒名など、香桂院静室古錦大姉/弘化二年五月十九日於江戸/大正十三年六月二日於東京/齢八十歳
福沢諭吉・お錦夫妻墓碑
が刻まれており、ちなみに福沢諭吉の戒名は1898(明治31)年一回目の発病時に小幡篤次郎が選んだとされています。
また、上大崎の常光寺に改葬された、

●明治五(1872)年、妻お錦が死産の女児を分娩し三田龍源寺に埋葬され後に上大崎に改葬。

○墓碑(石碑)
・正面   自覚孩女
・左側面  父福沢諭吉/母阿錦/明治五年七月二十二日死胎
●明治十(1877)年、福澤家に死産の男女の双子が生まれ、白金の重秀寺に埋葬され後に上大崎に改葬。
○墓碑(石碑)
・正面   自音孩子・自性孩女
・左側面  父福沢諭吉/母阿錦/明治五年七月二十二日死胎
これら死産であった子供たちの墓は善福寺には移転されませんでしたがこれは善福寺への改葬時に父母の墓に合祀されたものか、またはそれぞれの当初の埋葬地である三田龍源寺・白
金重秀寺から上大崎に改葬された折に合祀されたものかを確定する文献は見あたりませんでした。




福澤百助之妻阿順之墓
②は、明治七(1874)年五月八日福沢諭吉の母お順が歿し、翌九日三田龍源寺の墓所に埋葬されたおりに建てられたものですが、この墓所までの葬列の際の福沢諭吉の姿は、
黄八丈の着物にパッチをはき、尻端折りで一太郎、捨次郎の二子を伴った
といわれています。

○墓碑
・正面 福澤百助之妻阿順之墓
・側面 明治七年五月八日死 齢六十九歳七ヶ月
橋本濱右衛門之女  福沢百助之妻
福澤三之助・小田部阿禮・中上川阿婉・服部阿鐘・福沢諭吉)之母



③は、明治六(1873)年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てたものを上大崎の常光寺、麻布山善福寺と移築した記念碑。
この碑文は福澤家系図を典拠として諭吉自身が書いた文章だといわれています。


  福澤氏記念之碑


福澤氏記念之碑
福澤氏の先祖は信州福澤(地名)の人なり。元禄宝永の際、
其の子孫兵助なる者、豊前中津の海岸下小路に住し、
宝永六年五月二十三日死して中津桜町明蓮寺内に葬
る。これより以前の事は得て詳にす可らず。○兵助の子を
兵左衛門と云ふ。兵左の孫を友米と云ふ。友米始て中津の
奥平藩に奉公して足軽と為りたり。これに由て考えれば
福澤氏の先祖は必ず寒族の一小民なる可し。○友米に一女
あり。阿楽という。同藩中村氏の男を養子と為し、これを
第二兵左衛門とす。文政四年九月二十一日死す。妻阿楽は
嘉永五年六月十八日死し、共に中津竜王の浜に葬る。○兵
左衛門に三男三女あり。長を百助と云ふ。同藩橋本浜右衛門
長女阿順を娶て二男三女を生む。
文政五年より同藩元締の小頭として会計の下役を勤め、大阪
の藩邸に在る十五年、天保七年在勤中に死す。百助は文学を
好み志操高尚にして正直潔白の名あり。○百助の大阪に死す
るとき、長男三之助十一歳、末男諭吉生まれて十八箇月、三
姉妹と共に母に従て中津へ帰る。三之助長ずるに及んで文を
好み頗る穎敏の聞あり。同藩藤本氏の女を娶て一女を生む。
安政三年九月三日死して竜王の浜に葬る。○兵助より三之助
に至るまで歴代の墓は皆中津の明蓮寺内と同処金谷村の三昧
と竜王の浜とに在り。三之助死するに及んで諭吉福澤の家を
続ぎ、安政五年より東京に居住し、明治六年十一月先祖記念
のため爰に其碑を建つ。




司馬遼太郎は「街道を行く34(大徳寺散歩、中津・宇佐のみち)」文中で、この碑文の文中、

・・・・・これに由て、考えれば福沢氏の先祖は必ず寒族の一小民なる     可し(東京の福沢氏の墓所の碑文)

と、福沢諭吉自身がいう。福沢のあかるさがよく出ていて、いい文章である。

としています。





高仲熊蔵・はな夫妻の墓
④は、1910(明治43)年、福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死して白金重秀寺に埋葬されたおりに建てられたもの。


高仲熊蔵・はな夫妻の墓

墓碑正面が諭吉夫妻の墓に向けて設置されているので墓所正面から見るとこの小さな墓の設置理由が書き込まれていたようなのですが、多くの文字が剥落しており文章として理解する
のは難しくなっています。しかし南側面には、
熊蔵 万延元(1860)年二月二日生 1910(明治43)年十月二七日歿
は● 1917(大正6)年四月一五日歿
西側正面には、
高仲熊蔵 之墓
妻 は●


この熊蔵は、福沢家の従順な下僕で、福沢家では「万蔵」と呼ばれていました。そして、やはり福沢家の女中であった「はな」と結婚します。

「はな」は、福沢諭吉の長女「里」が中村家に嫁す時に雇って連れて行った女中でした。子守などもしたそうですが、1895(明治28)年に里の夫中村貞吉が亡くなると、里は子供たち・はならと福沢諭吉の家に戻りました。その後はなは、福沢家の使用人である高仲万蔵と結婚して、晩年は広尾の福沢家の別荘(現在幼稚舎)に住み、その留守番のようなことをしており、そして週に何回かは三田の福沢邸にも通っていたといわれています。 広尾の別荘は福沢が長男の一太郎名義で同所に所有していた水車もあったのでその作業も行っていたのかもしれません。

この万蔵は本名を熊蔵といい、諭吉のお気に入りの下僕でした。1889(明治22)年福沢一家が関西に旅行したさいには万蔵もこれに同行し、奈良の大仏殿にある柱の穴を見事にくぐり抜けたので諭吉は「万蔵も首尾良くぬけたるは平生正直なるが故ならん」と記してその正直な生き方を讃えています。また1898(明治31)年8月、福沢家の飼い犬が狂犬病にかかりこれに
万蔵が左手首を噛まれ伝染病研究所に入院した際には万蔵を「忠僕」とした治療依頼を書いています。

このように愛された万蔵も1910(明治43)年お里、お房の二人を人力車に乗せて引ひいている際に愛宕下近辺で心臓発作を起こし急死します。そして、それを哀れんだ福沢家により同家の墓所に埋葬されたものと思われますが、とりわけ諭吉の妻「お錦」の意向が強かったのではないかと考えられているそうです。また、高仲万蔵が本名の熊蔵ではなく万(萬)蔵と呼ばれていたのかを明らかにする文章は見つけられませんでした。

最後に「高仲熊蔵・はな夫妻の墓」は昭和40年代に福沢家がこの墓碑を修復(立て直し?)したといい、剥落した墓碑裏面の文章は其の折に書かれたものであるといわれています。また福沢家記念碑についてもこの碑文とは異なる拓本慶応義塾図書館に残されており、これらの墓碑が建立された当時そのままの墓碑であるかは疑問が残ります。