善福寺本堂の法要 |
福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日慶応大学敷地の三田の自宅で臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺として買い求めた麻布山善福寺で行ったのちに、諭吉が生前自ら買い求めていた品川区上大崎の本願寺(現在は常光寺)に土葬で埋葬されました。その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。
午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
福沢諭吉墓所 |
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
と細かく伝えています。棺が自邸を出たのが午後12時40分で、善福寺の到着が午後2時としているので三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかります。
時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が品川区上大崎の常光寺より麻布山善福寺の墓地に移設さることとなります。その際には、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため、遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘されたそうです。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もありましたが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残されて諭吉との由緒を伝えています。
諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参します。
福沢諭吉墓所 |