2013年3月8日金曜日

芝・紅葉館<紅葉山>


現在東京タワ-が建っている山は、その昔に紅葉山(もみじやま)と呼ばれていました。これは徳川2代将軍秀忠が、江戸城内の楓山から多数の楓樹の根を分けて移し植えた事から起こった地名で、山の下部を「紅葉谷」、金地院前の坂を「紅葉坂」、渓流から流れる滝を「紅葉の瀧」と呼んだそうです。

1881(明治14)年、この紅葉山に当時の代表的な純日本風高級社交場として「紅葉館」が開業しました。同時期(明治16年)には西洋風の社交場である「鹿鳴館」が開業し鹿鳴館時代などと呼ばれもてはやされましたが、西洋の舞踊などが主であったため、鹿鳴館は僅か七年で消滅しました。その後の外国人接待、政財界人の集いなどは主にこの芝・紅葉館が使用されることとなります。
芝紅葉館

 創業時の敷地面積は1,956坪でしたが、その後の用地買収などで最終的には4,610坪という広大な土地を有し、庭内には渓流、瀧、築山などもあり、本館には純和風の客室、供待ち部屋の他に、総檜造りの湯殿、京都大徳寺山門から移され、生前自らが刻んだと言われる千利休の木像が安置された「利休堂」がありました。
そして上野で開催された第1回国内博覧会で、天皇が休息した建物を移築し縁を鴬張りに改造した離れ座敷「便殿」もありました。また明治22年には新館が増築され、三間合わせて100畳敷きの畳を上げると檜の舞台にもなったそうです。
開業当初、芝・紅葉館は300名限定で会費300円の会員制で完全予約制であり、ほんの一握りの上流階級に属する者しか会員の資格を認められず、有名人でもなかなか入れなかったといわれています。そして入り口には「雑輩入るべからず」と書かれた看板があり、また門には制服姿の守衛が警備して入館者を厳重に管理していました。

利用客の主だった会合の一部を紹介すると、

  • 明治14年柳川春三の追悼会に訪れた福沢諭吉。
  • 明治15年晩餐会に出席したE.Sモ-ス
  • 明治16年出獄祝宴の陸奥宗光
  • 明治18年欧米出張を命じられた高橋是清の送別会。
  • 明治22年読売新聞創刊15周年祝賀会の尾崎紅葉
  • 明治24年帰国船親睦会の新渡戸稲造
  • 明治27年外交団晩餐会のベルギ-公使
  • 明治28年祝宴の伊藤博文
  • 明治29年米国公使赴任送別会の星亨
  • 明治29年自由党宴会の板垣退助
  • 明治31年日本美術院創立披露の岡倉天心、横山大観
  • 明治35年代議士懇親会の原敬
  • 明治36年陸海連合懇談会の大山巌大将、伊藤祐亨大将
  • 明治40年雨声会の西園寺公望、田山花袋、島崎藤村、国木田独歩、他
この中でも明治30年頃の常連と言われた人の中に、尾崎行雄、犬養毅、尾崎紅葉などがおり、その名前をこの紅葉山からとった尾崎紅葉は、紅葉館の女中「お須磨」をモデルに金色夜叉のお宮を描きます。これは、文人仲間の巌谷小波が紅葉館に幾度となく足を運ぶうちに女中の「お須磨」と恋に落ちます。しかし、家庭の事情から金に困ったお須磨は、他の客の物となったそうです。これに怒ったのは、小波とお須磨の仲立ちをしていた紅葉でした。実際に、紅葉は主席でお須磨を激しく詰問したうえ、廊下に連れ出して足蹴にしました。この時の様子が金色夜叉の熱海の海岸場面として登場する事になります。
1884(明治17)年の紅葉館
また、この紅葉館女中の中からは後に川上音次郎の進めで女優になった「お絹」、伊藤博文夫人の「おすま」、ハインリッヒ・ク-デンホ-フ婦人の青山光子、通称「お光」などがいました。

 上流の者でもめったに紅葉館には入れなかったので、たまにビジタ-として訪れる者が紅葉館の備品を失敬する事が多かったといいます。特に杯は人気で、酔った勢いで持ち出した杯を2次会の新橋あたりの料亭において帰る者が多く、紅葉館もあまりの紛失ぶりに苦慮したらしいのですが、結局他の高級料亭に置いて行かれた杯も紅葉館の名をさらに高める効果をもたらしたといいます。

繁栄を誇った芝・紅葉館も1945(昭和20)年3月10日のいわゆる東京大空襲で焼失し、その幕を閉じました。しかしその後も土地の登記面上は1960(昭和35)年まで存在しており、この年の2月23日に日本電波塔株式会社に吸収合併され名実供に「東京タワ-」となって完全に消滅します。














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