○七不思議の成立
江戸学辞典によると「七不思議」とは、江戸時代中期、江戸に住む知識人たちが、当時の感覚で不
思議だと思われた天然現象を七つ選び出して 定着させたといい、そのそも七不思議は「同類のものをいくつかまとめ、一定の数をつけて呼ぶもの」という定義の「名数 」の一つであり、七つの事柄を並べ特筆するという習慣が古くから行われていたためと考えられる。
不思議話と「坂」・「湧水」地点
これら名数の中の「七」の項目である七不思議は、江戸のものだけでも麻布・本所・千住・霊岸島・番町・根岸・馬喰町・小石川伝通院・ 品川東海寺・府中六所などが残されており、その共通点は、
①池・沼・堀・井戸・橋などの水辺に関連する現象
②異形の樹木・草などの植物に関連する現象
③怪音・怪光に関連する現象
としており、さらに「江戸学辞典」では、麻布・根岸・番町などは坂によって区切られた地形であることから、
水辺や台地端にかつての聖地があり、江戸が開発されてゆくプロセスで、聖地も変化する。しかし周辺の地域の人々には、そこが聖地であった 証を不思議な現象として記憶にとどめておこうとする意図が、これらの世間話には反映している。としている。また狸囃子や馬鹿囃子などの現象を、
新開地の人里離れた武家屋敷や、二つの町場をつなぐ坂の途中などで聞こえるこれらの怪音は、江戸が都市化する状況で記憶にとどめられたものと記している。 この不思議話の生まれる背景について、港区郷土史料館学芸員の松本健氏も「あざぶ達人倶楽部」初級講習会において
・水のある場所が「神聖」な場所であることを記憶に留めるため語り継がれた。として講演している。 また江戸東京博物館研究報告・第5号では横山泰子氏が「江戸の七不思議変遷考」と題した論文で、 「ナナフシギ」の7という数について、
~飯泉六郎氏は「数に対する神秘観」が人間にあることをまず前提としながら、奇数が尊ばれる中国の伝統に影響された 日本でも、7を神聖視する発想があるのではないかと考えた。郡司正勝氏は、数への神秘感という点で飯泉説と共通するものの、 基本的に7を凶数とし、様々な事例を挙げて説明している。7が吉凶どちらであるかはともかくとして、人間界の理論を超えた 非日常的な数であるとは言えそうである。ちなみに「フシギ」は仏教語「不可思議」の略語である。としており、さらに「教覚私要鈔(宝徳二(1450)年)」、「親長卿記(明応二(1493)年)」などの書籍文中に
超自然的な現象七つを「ナナフシギ」と呼ぶ名称の用例は、幸若舞の「敦盛」「天王寺と申すは、聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は 経るとも尽きすまじ」などが挙げられる。また、「ナナフシギ」なる言葉は使わなくとも、超自然的な出来事を七つとりまとめる発想は、中世に 既に見られる。
は、すでに怪異を七つ並べる事例が 記載されているとしてその例を挙げており、「近世以前に「ナナフシギ」という言葉と、それが指し示される事象・観念がともに成立していたと考えられよう。」 と結論づけている。これにより以前、当サイトむかし、むかし「麻布七不思議の定説探し」において 「七不思議」という言葉自体が明治期に西洋文化が取り入れられたさいに「the seven of wonders of the world」が伝わったときにその訳語として表されたというのが定説のようだ。 と自説を紹介したが、どうやらとんでもない思い違いであったようでこの場で訂正させて頂く。 (が...しいて釈明をすると、紀元前2世紀にビザンチウム(東ローマ帝国)フィロンの書いた「世界の七つの景観」という概念が「Seven Wonders of the World」として伝わり、さらにシルクロード経由 で中国に伝播し、それが仏教思想などと融合した後に日本に伝わったという考え方も否定はできないと思われる。) このようにして発生した七不思議の概念が一般的になるのは1700年代初頭の江戸期からとされる。 「江戸の七不思議変遷考」はその過程を信濃七不思議・越後七不思議を掲載した「本朝怪談故事[正徳六(1716)年]」、「本朝奇跡談[安永三(1774)年]」 などに求めている。そして同書はやがて江戸市中でも七不思議が形成されてゆく過程を、
古代遺跡とアサップル伝説
~こうした田舎の奇談(信濃、新潟、諏訪など)の情報が都市に流れ、江戸周辺の不思議に対して関心が寄せられるようになるのが、江戸の七不思議の 端緒であると見る。「七不思議をしきりに話題にしたのは、十八世紀中葉過ぎてからのことで、江戸の知識人たちが、江戸を離れた諸国の七不思議を 奇事異聞の情報として記録した。ところが七不思議は、何も遠隔の異郷の地にあるのではなく、江戸という大都市空間の中にも形成されていることが 気づかれ出し」、麻布や本所など江戸の近郊での不思議が注目され、七不思議としてまとめられるようになったと考察している。としている。
○七不思議の変遷過程
このようにして成立した七不思議が成熟する過程を「江戸の七不思議変遷考」は、
A. 超自然的な現象が個々に「不思議」と認識されて話題となるが、七つにまとめられる以前の段階 ↓ B. 不思議とされた事象が、場所や時期などの観点から、7種にまとめられる段階 ↓ C. 七不思議の内容がある程度固まり、芸術作品等を通じてより広く社会に認知される段階 ↓ D. 七不思議が伝説として位置づけられるが、内容が過去のものとなり、神秘性を喪失する段階
として
七不思議話としての成熟を分類している。また同書のまとめ事項においても別の切り口から、
- 18世紀中葉、七不思議が各々の不思議現象として独立に語られていた前時代を経て、地方の七不思議の知識の普及を背景に、19世紀初頭、江戸の七不思議として語られ始めた。
- 七不思議は、江戸時代から既に何を選択するかで諸説あり、常に議論になっていた。
- 明治以降、七不思議は一般の関心を失う反面、伝説として記録保存されていった。
- 七不思議は江戸時代から絵画文学の素材となっていたが、明治の話芸でも口演されていた。
と記されている。蛇足ではあるが、これに昨今の麻布地域の状態を当てはめて追加すると仮定すると、
となるであろうか。
- 大正期の住民増加に伴う宅地化で七不思議の舞台となる場所の景観が変化する段階。
- 震災や戦災で寺社など七不思議の舞台が焼失・遺失する段階。
- 七不思議の舞台となる場所が開発や再開発による周辺地形の変化で消滅してゆき、話の現実感が乖離する段階。
- 土着住民(Native)が高齢化し、次世代が再開発などにより他出。七不思議は伝承されなくなり、わずかに表示板や碑のみが存在する段階。
- 史跡を示す表示板等も整備されなくなり、また再開発による新規住民(NewComer)も土地の謂われを認識できず、 七不思議そのものが忘れ去られ消滅する段階。
イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは、
12、13才くらいまでにその民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる。と述べ、伝説の伝承を怠った民族への警鐘を鳴らしている。
また、大正から昭和にかけての高僧・大谷光演は 句仏とも呼ばれ、晩年には麻布七不思議を、
冬の夜を 語る麻布の 七不思議と詠み、寒い冬の夜に、囲炉裏を囲んで古老が幼年者へ昔語りをするさまが詠まれている。
そして、麻布本村町の大正~昭和期の様子を描いた荒 潤三氏の著書「麻布本村町」は冒頭でリルケの詩「若き詩人への手紙」を掲載して やわらかく郷土愛への回帰を促している。
それでもあなたは、まだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、 あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。そこへあなたの注意をお向けなさい........。
○参考資料
- 麻布区史
- 港むかしむかし
- 十番わがふるさと
- 東京風俗誌
- 東都新繁昌記
- 江戸の口碑と傳説
- 鳥居坂警察署誌
- 東京百話
- 続・麻布の名所今昔
- 江戸の闇・魔界めぐり
- 江戸に眠る七不思議と怖い話
- 麻布六本木歴史散歩
- 「お化け」生息マップ
- 江戸学辞典
- 東京都江戸東京博物館研究報告 第5号「江戸の七不思議変遷考」
- 都市民俗論の課題
- 史林364号 「江戸人の不思議の場所」
- 現代に生きる/麻布の七不思議<港区広報ビデオ>
- 港クイックジャーナル/麻布七不思議<港区広報DVD>
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