2013年5月29日水曜日

東禅寺襲撃事件<高輪>

東禅寺山門
高輪の仏日山東禅寺(正式名称は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺)は臨済宗妙心寺派の別格本山で 江戸四箇寺の一つとされています。
慶長1十五(1610)年、赤坂に建てられ、その後寛永十三(1636)年現在の地高輪に移転し、15,000坪に及ぶ広大な寺領を有していました。
幕末の安政六(1859)年、イギリス初代公使オ-ルコックが江戸に入ると東禅寺は幕府からイギリス公使館と定められました。この東禅寺の他にも候補となった寺院が三田などにありましたが、イギリス側は、非常事にすぐに軍艦に乗船できる東禅寺を選んだといわれています。

東禅寺が英国公使館となることが決まると、攘夷思想による 当時の不穏な情勢を反映して寺院内には10余りの番所をつくり、公使館のまわりを竹矢来で囲み常時150名ほどの武士が護衛として配置されました。そんな厳重な警戒の間を縫って安政7年1月7日(1860年1月29日)日本人通訳の伝吉が寺の門前で白昼に殺害されてしまいます。そして約1年後には寺内の英国公使館そのものが襲撃を受けることとなります。

文久元(1861)年5月28日の夜11時頃、水戸藩士有賀半弥ら14名の浪士が表門の垣根を破って乱入し イギリス人2名を負傷させ、警備の武士、浪士ともに数名の即死者と多数の負傷者を出しました。しかし、最大の目的の英国公使オ-ルコックを殺害する事は出来ませんでしたが、これは彼の部屋が一番奥にあったためであるといわれています。もし、襲撃が裏手の山側から始まっていたら、真っ先に彼は殺害されていたと思われています。 
東禅寺境内
翌29日の明け方、赤羽接遇所に滞在していたシーボルトが事件を聞きつけ、警護の武士に守られて来館し負傷者の治療に当たります。 このときの様子をシーボルトは、
~6日(西暦では五月二九日は7/6)の朝3時半 ,わたしは早馬で来た日本の役人により次のような知らせを受けました。~略~ この知らせを受けて私は護衛の25名に対し、夜が明けるとわたしの共をして、ここから(赤羽接遇所)から約一里離れている公使の住居に行くように命じました。五時頃わたしと息子のアレキサンダーは十分に武装をし、二十五名の選り抜きの護衛と共にそこ(東禅寺英国公使館)にむかいました。~

と日記に書き残しています。

この襲撃の直接的な原因は、オールコックがモース事件の処理により赴いていた長崎からの帰路を長崎奉行などの反対を押し切って陸路とし、京都見物(市内には幕吏に阻まれたため、入りませんでしたが)や霊峰である富士山に登山をするなど神州の地を汚されたと水戸の攘夷派が激怒したためといわれています。ちなみにこの襲撃事件が起こったのはオールコック一行が東禅寺に到着した翌日のことでした。この襲撃事件は後に第一次東禅寺襲撃事件と呼ばれることとなります。
ちなみに水戸藩士有賀半弥ら14名(別説には18名とも)の浪士は5月24日水戸を船で出発し、東禅寺の門前河岸で上陸し品川宿の妓楼「虎屋」で決別の祝宴をしたのち、28日に襲撃事件を引き起こしたそうです。


そしてちょうどその一年後、オ-ルコックが英国に帰国中の文久二(1862)年5月29日、再び襲撃事件がおこります。この夜は前年東禅寺に乱入して死亡した浪士の一周忌が行われていましたが、寺の警備の松本藩士伊藤軍兵衛が長槍を持って公使の庭に忍び入り、見張りのイギリス人を殺害します。そして混乱した現場から逃れた彼は自宅に戻り自害して果てました。この襲撃は彼が、日本人同士が傷つけ合うのは外人が居るためと思いつめ、暴挙に走ったと考えられました。
東禅寺本堂
 
この襲撃事件は第二次東禅寺襲撃事件と呼ばれています。

これら二度の襲撃事件により英国公使館は一時横浜に退去し、新たに品川御殿山に公使館の建設が始まります。しかしこの御殿山公使館も完成間近、長州藩の高杉晋作井上聞太(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)らによりにより襲撃され、焼失してしまいます。しかし公使館が横浜にあることに不便を感じていたオールコックの後任公使パークスの強い希望により泉岳寺に英国公使館が建設されます。この泉岳寺の公使館は攘夷派の襲撃を逃れるため「高輪接遇所」と偽っていました。その後明治になると公使館は旧沼田藩三田邸(現在の亀塚公園あたり)の地に移転し、さらに明治5(1872)年には皇居に近い現在の地(千代田区一番町)に移転します。

余談ですが、作家の岡本綺堂は父親が英国公使館に勤務していたため、高輪で生まれています。そして英国公使館の移転に伴い家族と共に麹町に居を移し、その家で長じたのちに綺堂は関東大震災で罹災し麻布に仮寓することとなります。

その後、東禅寺は幕府の滅亡により寺領は上地となり、檀家の武家も故国に帰ったことや、廃仏毀釈の影響を受け自然と寂れます。しかし今も名刹であり、玄関の鴨居や柱に1回目の襲撃時の刀きずや弾痕を見る事ができ、当時の面影を色濃く残している貴重な寺院です。










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