2013年5月3日金曜日

麻布七不思議-一本松

 暗闇坂大黒坂狸坂を登り切った合流点にある松の木。この木のあたりから上の
麻布一本松
なだらかな坂を一本松坂といいます。
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもあります。有名なものでは、源経基がこの傍の民家に宿を求め翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたといわれる伝説が残されています。また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだという伝説も。その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸(高鍋藩:現在の麻布中学の敷地に上屋敷がありました。)の羽衣の松、など数々の話が残されています。
現在の松は、3代目の植えつぎで残されたものであるとの事ですが、それ以上の植継がれているという説もあります。

小野篁説では、京都から松乃宮様という方が下ってきて、この松の下で亡くなり、介抱をした小野篁が衣冠と遺体を埋め、松の木を植えた。木造の如意輪観音を安置した。小野某の死後この観音様は現在隣の長伝寺に移されたと伝えています。

★文政町方書上-麻布一本松町
 ~往古当所へ松の宮様と称し奉り候御方京都より御下向これあり、暫くお足を留められ候に終に薨御あそばされ候につき、かねて御介抱され候小野姓の何某御衣冠とも当時の場所に葬り、お墓の印に植えられ候松ゆえ冠の松と唱え候由。右傍に草堂を結び如意輪観音の木像を安置しお跡を弔い申され候ところ、終焉の後、年代知れず、観音は同所長伝寺へ移し、跡へは松の守りに番人差し置き候由。観音は、およそ丈八寸位の座像にて、智証大師の作の由。松の儀は、古来一葉ゆえ一本松と呼び替え候や、明和九辰年焼失致し植え継ぎ候えども、おいおい一葉に相成り申し候。今は氷川神木の由申し伝え高さ三丈六尺八寸、枝東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺八寸、北へ一丈六尺三寸、根廻りにて五尺八寸これあり、右へ長さ一丈、幅八尺四方の駒寄せ致し置き、咳の病人平癒の願掛け致し、成就の上は竹の筒へ醴を入れ納め候由に御座候。~
★東京名所図会-一松山長伝寺
 同寺に安置せる観音の木像あり。伝云ふ往昔一本松の枯死したるの際。其の樹皮朽蝕剥落して木心僅かに存せるもの七八寸。其の状観音の立像に類せるより時人之を祀れるものなりと。其傍に一面の石碑あり。丈二尺五寸。幅一尺許り三梵字を刻せり弥陀。観音。勢至の佛菩薩の名號なりとぞ。右方に延文3(1358)年戊戌三月吉日と刻せり。
江戸名所図会 麻布一本松
とあります。 また、狸坂と暗闇坂を挟んだ広大な土地が江戸初期の萬治二(1659)年、幕命によって芝増上寺の隠居地になるまで、このあたりは 麻布氷川神社の社領であったといわれています。これにより一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれ、また、源経基が平の将門の乱により京に逃げ帰る過程として笄橋を渡って一本松に至り、そこで宿を求めたという説も残されており、笄橋伝説、一本松伝説の発祥の元となっています。

続江戸砂子-一本松には、
 天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川(笄川)を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。
とあり、「渋谷八幡東福寺」と明記しています。渋谷八幡は創建を寛治六(1092)年とし、同じ敷地にある別当寺の東福寺は承安三年(1173年)開創と伝わっていますので、これらが正しければ源経基が止宿した天慶2(939)年頃とは年代が合いません。しかし東福寺には経基が竜川(笄川)を渡るときに関守に渡したという笄が残されており、また渋谷八幡の別名「金王丸」は河崎重家(後の渋谷重家、渋谷家の祖)の子で、源頼朝により義経追討の命を受け戦死した金王丸常光(後の土佐坊昌俊)に因むといわれているので、いづれにせよ源氏との因縁は深いとおもわれます。






そして江戸期には一本松からも遠くない本村町薬園坂に源経基の持念仏といわれる七仏薬師が祭られた東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)が移転してくるのは、単なる同名寺の偶然でしょうか?謎は深まります。(源経基縁の渋谷と薬園坂の両東福寺を江戸初期に庇護したのは家光生誕を祝う於福の方(春日局)でした。)

また同書には続いて天正年間(1573~1593年)の話として、 
安藤広重木版画「麻布一本松」
嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。
とあり、呪いの松とも呼ばれたといわれています。

さらに、
★麻布区史
首塚-一本松増上寺隠居所の辺で、関ヶ原役に岐阜より到着せる多数の首級を埋めた處である。
★文政町方書上-麻布一本松町
~前書一本松の儀、首塚とも申し伝え候えども、この儀は相分かり申さず候。~
とあり、慶長5(1600)年8月に関ヶ原の戦の前哨戦として行われた岐阜城攻めの首を、江戸城の徳川家康が検分後、このあたりに埋めたという説があります。このことから「家康手植え・首塚説」なども伝わりますが、この首塚説には異説もあり、もう少し南側の西町近辺とする説もあるようです。

また、六本木の地名発祥の一説には、
 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。六本木あたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木というようになったという。
ともあります。

元禄15(1702)年の赤穂事件で討ち取られた吉良上野介は、浅野内匠頭切腹後に鍛冶橋から本所へと幕命により転居されることとなります。その本所屋敷改装中の仮寓先を定説では上杉家高輪屋敷としていますが、麻布区史は、吉良家一本松邸では?という疑問を投げかけており、その一本松吉良邸の合った場所を「府内往還沿革図書」を出典として善福寺北方、本善時・徳正寺・大法寺に取り囲まれた場所としています。またほぼ同時期の元禄16(1703)年に一本松では南部家などとも縁の深い幕府表絵師「麻布一本松狩野家」が「花下遊楽図」(国宝)の筆者、狩野長信の三男・休円清信を祖として誕生しています。

また江戸期の書籍「諸家随筆集」では、当年(寛政10年(1798年))東武七奇の一つとして、
麻布一本松水茶や婆々九十二歳にて、名はかめ、6月朔日、男子を産、其子生れ落てより物言。
とあり得ない話を記していますが、一本松横にあった茶店「ふじ岡」のことでしょうか?
この「ふじ岡」は、松の枝に甘酒を入れた竹筒をかけるとぶら下げると咳が止まるという里俗信仰が一本松に残されてい事から甘酒を売って繁盛したといわれています。

そして樹とは直接関係はありませんが、太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦が叫ばれ、麻布山も巨大な地下壕が建設されていました。この地下壕の宮村町-麻布山善福寺を結ぶトンネルがこの松の下あたりを通っていたことが地元の目撃情報などにより明らかとなっています。詳細はこちらをどうぞ

またさらに麻布区史では、このあたりが古墳であったのでは?と述べていますが、区史が執筆された昭和初期にはその痕跡をとどめないとも書かれています。しかし、この近辺では未完成の石器などが出土しており近辺の石器の製作所跡との説もあります。


麻布一本松
麻布一本松
これらの事象から、
・源経基止宿説
・麻布氷川神社ご神木説
・呪いの松説
・松の宮埋葬説
・小野篁植樹説
・徳川家康植樹説
・首塚説
・秋月の羽衣の松説
・甘酒快癒伝説
・塚の印説
・古墳説
など諸説が現在も伝わっていて、古来より大切にされてきたことが伺えます。


松樹の根元の碑(昭和38年一本松・西町町会建立)によると、
江戸砂子によれば
天慶2年西紀939年ごろ
六孫源経基平将門を征服し
ての帰途此所に来り民家に
宿す 宿の主粟餃を柏の葉
に盛りさゝぐ 翌日出立の時
に京家の冠装束を松の木に
かけて行ったので冠の松と
云い又一本松とも云う
とあり、また、碑の最後には、
注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継
昭和20年四月又焼失に付き植継
昭和38年建立 一本松・西町町会が建立した碑
一本松・西町町会が建立した碑
とこの樹が焼失により2回植継がれていることが書かれています。しかし、十番未知案内サイトの解説によると明治9辰年 は誤り(明治9年は辰ではなく子)で明和9辰年の誤記ではと指摘しています。調べてみると確かに明和九(1772)年2月29日には行人坂大火があり麻布も広範囲に罹災しているのでこちらの説の方が説得力があると思われます。
追記:文政町方書上を再読してみると「明和九辰年焼失」とはっきり書かれていました。文政町方書上は町年寄り・名主が幕府に差し出した正式な記録で信憑性が高いと思われるので、十番未知案内サイトの説は、正しかったことが確認されました。
また、この他にも麻布区史によると、文化年間(1804~1817年)に表された「飛鳥川」には、 
   「麻布一本松も先年焼失して、今の松に植えかへ、昔の松の影もなし」 
と記されているといわれていますが、これは1806年文化三(1806)年におこった文化の大火(別名芝車町大火)との関連を想像させるものであり、事実ならば、一本松は江戸の三大大火といわれる「明和の大火」、「文化の大火」で焼失していたことがわかります。
また、麻布生まれの国学者である岩本素白 は著書「山居俗情」の中で、
静かな屋敷町続きの坂の上に、昔ながらの松が一と本。植ゑついだもので、まだ老木といふ程にはなつて居ないが、振りの佳い枝が縁の袖を伸ばして、その下影に在る一基の石灯籠も、その根元を固めた低い石垣も、すべて名所図会そのままの面影を留めて居る。

と昭和初期の松の様子を記しています。

松樹の土台石垣には安政二(1855)年「若者」の文字を彫り込んだ石が埋め込まれ、樹の横には道標として使用されたと思われる古い標石、「家持中」「世話人 若持中」「文化四丁卯年(1807年)」と書かれた石灯籠、そして何か曰わくがありそうな古そうな石などがあります。この古そうな石のうちの一つをよく見ると墓石であり、
寛文六?年(寛文六(1666)年は辛酉だが一文字しか入っていないような...)
為其月妙林信女
六月三日
と表面に彫られています。松樹との因果は不明ですが、寛文六(1666)年とのことで、江戸初期のものであることは間違いないようです。

さらに麻布区史では秋月の羽衣松について、
今の一本松を云った。江戸繪図を見ると、秋月候の邸地とは大分離れてゐるから、或は別に邸内に一本松があつたのかとも思はれる。その由因は今詳らかにしない。
江戸の華名勝會-三番組、 麻布一本松
江戸の華名勝會-三番組、麻布一本松、六孫王経基・嵐雛助(歌川豊国)/元治元(1864)年二月出版
とありこの一本松との関連を、それとなく否定しています。しかしこれらを含めて、
・秋月の羽衣松→高鍋藩麻布一本松邸
・一本松狩野→麻布一本松狩野家
・南部盛岡藩邸→江戸麻布一本松御下屋
・三井家→一本松町家(連家)
などと、一本松を冠した呼称・家名が使用されていました。昭和四十年代期に一本松三井家の跡地は空地として近隣少年の格好の遊び場で、三井さんの原っぱ、わんわん原っぱなどと呼ばれていました。これは「薩摩っ原」、「有馬っ原」などと同義の呼称だと思われます。また、この一本松町家屋敷と一本松狩野家以外は実際の一本松とはかなり離れており、江戸期の「一本松」は、広範囲で使われた呼称であると考えられます。

余談ですが、三井家はこの一本松町家の他にも麻布近辺には、伊皿子家(本家)・本村町家(連家)・永坂町家(連家)などの連枝があり、さらに総領家である北家三井八郎衛門高公邸は笄町にあったものが江戸東京たてもの園に移築され一般公開されているそうです。(詳細はウィキペディアでどうぞ。)


★江戸鹿子-壱本松
あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
★続江戸砂子-一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。

       ★麻布一本松町の起立
正徳三(1713)年多くの麻布の村々がそれまでの代官支配(村)から町奉行支配の(町)へと移行し、麻布一本松村も麻布一本松町として起立します。1869(明治二)年麻布台雲寺門前を合併。同五年、長伝寺、大法寺、賢崇寺などの寺地と武家地跡を合併し、町域を広げた。「麻布」の冠称は1911(明治四十四)年まで。しかし港区が成立した1947(昭和二十二)年旧区名の冠称により再び麻布一本松町と改称します。同三十七年、北東部が新住居表示により麻布十番二丁目となり、同四十一年残地が元麻布一、二丁目となります。また、一本松町会は西町町会と合併し一本松・西町町会となりましたが、残念ながら1990年代頃に活動を休止し、現在に至っています。よって現在は麻布氷川神社の氏子町会としての一本松町会神輿は出ていません。


★一本松坂

西町から一本松町へ下る坂で、坂の途中東側の一本松に因む坂名です。かつては暗闇坂と分岐して東へカーブするあたりもから下(現在の大黒坂)も一本松坂と呼んでいましたが、坂下の栄久山大法寺境内にある大黒天が有名になったことから、大黒坂と呼ばれるようになったようです。

★その他


五大臣祝賀会
1916(大正五)年、寺内内閣の組閣に際して麻布区在住者が五人同時に国務大臣となったことから、12月3日その祝賀会が暗闇坂上の藤田家一本松町で行われました。(一本松町会の町域は狸坂下西部分にまで及んでいました。)

        ◆クレージー黄金作戦
1967(昭和42)年に製作されたクレージーキャッツ主演の映画で東宝三十五周年記念「クレージー黄金作戦」では映画のオープニングでタイトルバックと共に一本松阪から大黒坂を降りてくる主人公(植木等)が描かれており、一本松三井家跡地の通称「わんわんはらっぱ」も写り込んでいます。 
余談ですが、この映画は渡辺プロの強力なバックアップから当時としては珍しい一本立て興業として上映され、アメリカロケ、ドリフターズ・加山雄三らの出演と周年記念にふさわしい豪華な内容となっています。










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