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広尾水車が設置されていた
山下橋(水車橋)付近 |
これまで古川・渋谷川流域の水車について調べてきましたが、そもそもこの古川・渋谷川は江戸初期までは水量の少ない小さな川であったと考えられています。 しかし、承応二(1653)年に庄右衛門・清右衛門の
玉川兄弟の手による羽村-四谷大木戸間43kmの玉川上水が完成すると、その余水が渋谷川にも流され るようになりました。 この玉川上水は神田・亀有・青山・三田・千川などと共に「江戸の六上水」と呼ばれ江戸市民の大切な生活用水を供給することとなりましたが、 四谷大木戸からの余水放流により渋谷川・古川も大幅に水量が増えました。
そのそもこの玉川上水が造られた目的は江戸城内将軍家への良質な飲料の供給にあり、余水を市中に供給するのは二儀的な目的であったといわれていますが 、完成から約70年後の享保七(1722)年、幕命により神田・玉川を除く亀有・青山・三田・千川の各上水は、突如廃止されてしまいます。 これは上水が完備された時期から偶然に大火が増えた事により、上水が大火の原因という誤った風説が流され幕府も無視できなくなったこと、 市中に井戸が完備され始めたこと、上水の水量不足による将軍家の使用水を十分に確保することなどが原因であったと考えられます。 この中でも珍説である「上水が大火の原因」と力説したのは時の将軍八代吉宗の側近で重儒者の室鳩巣といわれています。 しかし、いったん廃止された三田上水は停止から2年後の安永三(1724)年沿線農村の願い出により、農業用の灌漑用水「三田用水」としての使用を許され復活しました。
江戸名所図会・広尾水車
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富嶽三十六景・隠田の水車
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江戸六上水
No. | 名 称 | 開 設 | 供 給 | 備 考 |
1. | 神田上水 | 寛永6(1629)年 | 江戸中央・東部 | 継 続 |
2. | 玉川上水 | 承応3(1654)年 | 江戸中央部 | 継 続 |
3. | 亀有上水 | 万治2(1659)年 | 隅田川以東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
4. | 青山上水 | 万治3(1660)年 | 江戸西部 | 享保7(1722)年 廃止 |
5. | 三田上水 | 寛文4(1664)年 | 江戸西南部 | 享保7(1722)年廃止後
安永3(1724)年三田用水として復活 |
6. | 千川上水 | 元禄9(1696)年 | 江戸北東部 | 享保7(1722)年 廃止 |
渋谷川の水車発祥
No. | 名 称 | 所有者 | 開 設 | 目標物 | 備 考 |
1. | 玉川水車 | 玉川佐兵衛 | 享保18(1733)年 | 山下橋
(水車橋) | 江戸名所図会に
掲載された広尾水車 |
2. | 柳沢水車 | 柳沢嘉兵衛 | 享保18(1733)年 | 石田橋 | 明治40年廃業 |
3. | 鶴田水車 | 忠左衛門 | 明和6(1769)年 | 鶴田橋 | 葛飾北斎の富嶽三十六景で描かれた穏田の水車
明治20(1887)年鶴田平吉所有 |
4. | 宮益水車 | 甚五郎 | 寛政5(1793)年 | 渋谷駅東口 | 杵数40本、のちの三井水車? |
5. | 忠兵衛水車 | 忠兵衛 | 享和3(1803)年 | 千駄ヶ谷 | 詳細不明 |
6. | 加藤水車 | 加藤** | 文政11(1828)年 | 庚申橋 | 明治期まで存続 |
庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が開発したとされるこの上水建設の実質的な陣頭指揮と立案は、あの知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の家臣 安松金右衛門であったことはあまり知られていないようです。 しかし幕府からの資金が底をついた後には私財まで投じて玉川上水開発に情熱を傾けた開発責任者の玉川兄弟の功績も決して否定できず、幕府も 工事完了後、兄弟に玉川姓と200石の扶持米を与え水元役に任じ、後年には大木戸に兄弟の銅像が建立され、さらに従五位の官位まで送っています。
玉川上水からの余水が流れ込むようになった後の享保年間(1716~36年)頃渋谷川では水車の建設が始まり、 玉川家も天現寺からやや上流、現在の山下橋付近の自邸内に水車を所持していました。この水車は一般的に「広尾水車」または「玉川水車」と呼ばれ、 葛飾北斎の富嶽三十六景に描かれた原宿近辺の「穏田の水車」と共に、江戸名所図会に描かれた「広尾水車」は江戸郊外の有名な水車となりました。
「渋谷の歴史」では「広尾水車」について、
~土豪玉川氏が渋谷川をせき止めて水を庭中に導き、水車を用いて多数の杵を動かしたので名高く一般から「広尾の水車」と呼ばれました。 今の山下橋はその頃水車橋といって「江戸名所図会」にも描かれましたが、また玉川氏の後裔玉川次致氏(弁護士)が霊泉院に委託した屏風は 、明治5(1872)年の旧宅を描いたものであるといえます。
嘗(かつ)て将軍が広尾に鷹狩りの際立寄って休息したことがあり、それ以来同家の赤門を御成門と称しました。
同家では八代将軍吉宗と伝えています。~
などとあり玉川家の功績は時代が下っても些かも衰えていなかったと思われます。また、 「ふるさと渋谷の昔がたり第三集」にはこの玉川家の様子を、
- 広尾に渋谷川の水を利用した「玉川の水車」がありました。玉川金三郎という人が主人公でしたからこの呼び名が生まれましたが、 東京の水車の中でも規模の大きいことでは指折りのものでした。
- この玉川家には、「御成門」と呼ぶ門がありました。徳川将軍が玉川家を訪れた時に出入りした門というので、たいせつにしていたようです。 子供の頃に見たのですが、いつでも固く閉じられていました。
- 玉川家では後に養子さんを迎えましたが、水車屋は引き継いだものの「御成門」は開かれて、そこから出入りしていました。
- 子供のころの記憶ですが、「玉川水車」では、渋谷川の水が少なくなると長い時で二時間ほども水を堰き止めて、水をいっぱいに してから水車を回していました。一日に二、三回はこれを繰り返していたようです。ところが、堰き止めた時には下流では水がなくなりますから 、フナやアユがたやすく捕れました。子供たちの楽しい遊びでした。
- 「玉川水車」は、電力で水車を回すようになって、やめてしまったのでしょう。記憶では、大正の初めごろまではあったようです。
などとあり、また「郷土渋谷の百年百話」では第十九話「渋谷川の水車」の項で加藤水車所有の加藤氏が所有する明治9年の「水車仲間帳」を掲載しており、 その中に玉川金三郎の名を見ることができます。そしてさらに明治21年東京府農商工一覧 水車数では玉川水車の規模を、
米搗き人:10名 一年間の働き:7,200石 取上げ代金:900円
として掲載していますが、これは渋谷駅付近にあった三井八郎右衛門の所有する水車をはじめ他の古川・渋谷川水車の中でも最大級の規模であったこと を表しています。
表1-明治期 古川・渋谷川(渋谷駅より下流)に流れ込む水流の水車(支流も含む)
設置
河川 | No. | 台帳
No. | 名 称 | 水車所在地 | 目標 | 用 途 | 諸 元 | 備 考 |
渋谷川筋 | 6. | 734 | 玉川金三郎
水車 | 豊多摩郡渋谷町
下渋谷1677番地 | 山下橋
(水車橋) | 精米 | 水輪2丈4尺幅6尺・下射樋長13間・堰高5尺5寸5分・搗臼11台 | 享保18(1733)年新設・江戸名所図会の広尾水車 |
★不思議な「玉川」地図。
謎の「玉川」地図
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これまで水車の情報をお伝えしてきましたが、そもそも麻布周辺の水車を調べ始めることになったきっかけは、数年前に近代沿革図集で 不思議な記載があることに気がついた事によります。この地図は文久二(1862)年「御府内 沿革図書」が元になっているようですが、 麻布の西南部を描いた地図上、広尾橋付近の広尾神社正面に「玉川」と記された場所があります。この敷地は堀田摂津守下屋敷の広大な敷地 を一部譲り受けているような形で存在しており、いろいろと調べてみましたが書籍、情報は一切確認できませんでした。
当初私はこの屋敷に玉川家の 名高い広尾水車が設置されていたものと勘違いしていたのですが、水車の情報を調べ始めるととすぐに違うことに気がつきました。 すでにご紹介したように広尾水車並びに玉川家屋敷は天現寺よりさらに3つほど上流の山下橋辺にあったことが確認できました。 それでは、あの広尾神社前の「玉川」とは?..... さっそく近所である広尾神社に問い合わせましたが、玉川家が正面にあったことは聞いたことが無いとのことで、さらに寄進物や灯籠などに刻まれた寄進者 の名前にも玉川は存在しませんでした。しかし、広尾神社大奥様が若い頃に先代の宮司様から聞いた話として、 「神社前の堀田家は江戸時代まで笄川を引き込んで水を溜めた池があった。その池ではたまに当主が船を浮かべて園遊会を催していた。」 と伺いました。これまで調べた水車の多くが、直接水車を川の流れで回す事は少なく、いったん水路で引き込んだ流水を使用して水車を回していた 事が多かった事とも合致する条件で、証拠や実証は一切無いのだがここに小規模な水車があったかもしれない事を推測できる逸話として記憶している。 これまでは文献や広尾神社のみを追ってきたが、広尾近辺は氏神様として「広尾稲荷神社」「渋谷氷川神社」そして祥雲寺門前が麻布宮村町代 であったことから麻布氷川神社当もその範疇として調べていきたいと考えています。そして、いつかこの「玉川」の謎が解けたおりにはまたご紹介させて頂くことと致します。
今回は玉川家とその開拓した玉川上水をお知らせしましたが、玉川上水は明治期を迎え幕府が滅亡した後には一瞬の空白期間をおいて その重要性から東京府へと管理を移管されます。 その際に玉川上水を四谷大木戸で分岐したものの完成から約70年後の享保七(1722)年に廃止されていた「青山上水」の遺構を復活して麻布方面への 上水を計画し、1880(明治13)年着工、明治14年竣工の麻布区の区営水道「麻布水道」が完成しました。しかし、江戸期の古い遺構・施設などを使用したためか この麻布水道の管理は完成後、わずか3年後の1884(明治17)年には東京府に移管されています。
今回、この項のタイトルを当初「広尾(玉川)水車と三田用(上)水 」としていましたが、三田用水もお知らせが長くなりそうなので、次回とさせて頂くこととします。
天現寺橋から見た渋谷川上流方面
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