2014年4月9日水曜日

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布


前回 「花子とアン」の麻布をお伝えしましたが、今回はその話の原作とされている「アンのゆりかご」に描かれた麻布をご紹介します。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」のシナリオの元となる原作「アンのゆりかご」は村岡花子の孫である村岡恵理が表した祖母の伝記です。
これにより、ドラマよりも細かく村岡花子の生涯が描かれています。

まず目に付くのは、ドラマでは花子が10歳の時に甲府から上京して、いきなり東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)に編入学することになっています。しかし、「アンのゆりかご」では、5歳で一家そろって上京し、現在の南品川(京浜急行青物横丁付近)に居を構え、葉茶屋(茶葉の販売店)をはじめたとしています。
そしてその上京はドラマよりも厳しいものであったようで、「親戚とのしがらみに決別して」の上京と記していますが、残念ながらドラマのシナリオでは、品川在住の部分がすべて欠落しています。

さらに、ドラマでは花子が甲府在住時に大病により生死を彷徨ったことになっていますが、実際には花子が南品川に住んでいた7歳の年に起こったことのようです。
その際辞世の句を詠んだのはドラマと同じで、



          まだまだとおもいすごしおるうちに


               はや死のみちへむかうものなり



と詠んでいました。
そして病気が回復した後には、



      まなびやにかえりみればさくら花 

               今をさかりにさきほこるなり







と詠んだそうです。ここでいう「まなびや」とは上京の翌年に入学した城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)のことで、この小学校には花子が10歳(4年生)まで在籍することとなります。

やや話は前後しますが、この「アンのゆりかご」第一章では冒頭、

~明治36年(1903)春-、10歳になる花子は父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。~中略~花子たちの脇を、友禅の和装姿の貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行く。長く連なる赤レンガの壁に囲まれるのは、華族や貴族と呼ばれる特権階級の屋敷である。久邇宮家、三条公美邸、実吉安純邸、明治維新の立役者である大鳥圭介邸、韓国皇太子が暮らす李王家など、貧しい平民の花子にとっては雲の上の人々が暮らす一帯は、近寄りがたい威厳をたたえていた。~(アンのゆりかごP32)

っと、当時の麻布の様子を描いています。この花子が父に手を引かれて歩いた桜並木の先には、もしかしたら当時麻布でも江戸期からの有数の銘木として知られ、太田蜀山人にも、

      永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

と詠まれた「岡の桜」(現在の麻布総合あたりにあった)も含まれていたのかもしれません。

1903(明治36)年、10歳の花子は東洋英和女学校へ給費生として編入学することとなり、東洋英和女学校寄宿舎での生活が始まります。つまり、この年から20歳で高等科を卒業する1913(大正2)年までの10年間、花子は麻布に居住していたこととなります。

また、この東洋英和への編入学には父の強い希望により実現したのもドラマと同じですが、その背景に品川に暮らしていた家族の犠牲という悲しい側面も持ち合わせていたようです。家族の生活は上京後にさらに困窮を深め、8人兄弟のうち、長女の花子以外の子供は次女と三女の外は全員養子などより親元を離れることとなります。

さらに、東洋英和での生活は苦労の連続であったことが記されていますが、ドラマでブラックバーン校長として登場するの第三代東洋英和女学校校長のブラックモアは校長を4度も務めた方のようで、その写真が「アンのゆりかご」に掲載されています。特に67ページに掲載された、

「明治中期、カナダ・メソジスト協会本部から東洋英和女学校に派遣されてきた婦人宣教師団」

というタイトルのつけられた写真の中で、ブラックモア校長が最後列に写されています。そしてこの写真の中央部には第2代校長のMrs.ラージが写されています。このMrs.ラージは、以前お伝えした東洋英和女学校寄宿舎で起こった強盗殺人事件で夫を殺害され、自身も指を2本失うという重傷を負うこととなる女性です。この事件により重傷を負ったMrs.ラージが帰国するにあたって校長職を継いだのがブラックモアでした。

また同頁に掲載された写真は1900(明治33)年に女学校創立地の潮見坂坂下から現在の校地に移転したばかりの綺麗な校舎・寄宿舎がうつされており、さらに30年後にはヴォーリス設計による校舎へと変貌することとなります。

そして、「アンのゆりかご」は、給費生として寄宿生活をおくる花子たちの様子と、十番商店街の接点も描いています。

~入学して半年ほどたったある日、同室の上級生が放課後、花子を誘った。
「ご一緒にデザートを買いに行きましょう」寄宿舎に「デザート」を持ち込むことは許されており、それは寄宿生の大きな楽しみであった。~中略~鳥居坂を下り、麻布十番の商店街にある松源堂という和菓子屋に入ると、そこにはすこぶる大きな金つばが売られていた。~(アンのゆりかごP48)


「十番わかふるさと」大正期の地図
などどあり、当時の彼女たちの最大の楽しみが「甘味」であったことが記されています。
ちなみに、この「松源堂という和菓子屋」ですが、稲垣利吉氏の著書「十番わがふるさと」巻頭の「大震災前の(1923)麻布十番商店街」というタイトルの地図に「和菓子松玄堂」と記されているのが同店で、現在は麻布薬局(麻布十番1-8-9)となっている辺りだと思われます。



さらに「アンのゆりかご」第三章では1908(明治41)年~1913(大正2)年の動きとして「孤児院での奉仕活動」を取り上げています。

前回お伝えしたとおり、給費生として東洋英和女学校に編入学した花子には「孤児院での奉仕活動」が義務づけられていました。
そこで、時代的にも合致している永坂孤女院での奉仕活動と、開院時の集合写真に花子が写り込んでいる可能性を東洋英和女学院史料室に調査に訪問したのですが、この書籍では花子がその永坂孤女院で奉仕活動をした可能性を完全に肯定しています。
当時の寄宿生は隣接する麻布教会(現在の鳥居坂教会)での日曜学校と聖日礼拝に出席することが義務づけられ、さらに書籍はこのように記しています。

~午前中、麻布教会の礼拝に出席する前に、花子たち数名の給費生は給費生の必修として、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂孤女院」の日曜学校に教師として出向いた。~」(アンのゆりかごP71)


そして岩崎きみちゃん(文中では佐野きみ)が同時期に孤女院にいたことも記されており、書籍には、

当時日曜学校の教師として孤女院に赴いていた花子が、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。(アンのゆりかごP72)


と記してきみちゃんと、その孤児院で行われていた日曜学校の先生である花子の面識をほのめかしています。ちなみに当時この日曜学校は麻布中学を創立した江原素六が校長を務めていました。よってこの書籍にはありませんが、おそらく江原素六と花子に面識があったと考えるのが妥当かではないかと思われます。

これまで「花子とアン」と麻布の関係、そしてその原作となる「アンのゆりかご」における麻布との関係をご紹介してきましたが、ドラマの方は麻布での寄宿生活が始まったばかり。今後の展開も楽しみですが、ドラマのシナリオと原作との違いなども確認しつつ、ドラマをより一層楽しむために是非「アンのゆりかご」のご一読をお勧め致します。









 




                    


アンのゆりかご 村岡理恵 著










★関連項目

「花子とアン」の麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん