高鍋藩上屋敷 |
現在麻布高校となっている地は、江戸時代に上杉鷹山の生家でもある高鍋藩秋月氏の上屋敷があり、敷地はがま池に隣接していました。この藩邸内がま池のほとりに寒山拾得の石像があったといわれています。
この石像は天文18(1549)年、富春山永徳寺(宮崎県串間市)に一蘭和尚により安置されたものを江戸時代に秋月氏が麻布の藩邸に移設し安置しました。
そして、この石について秋月家には不思議な言い伝えが残されています。
ある夜藩邸で時ならぬ時刻に「鰯売り、鰯売り」という声が聞こえたので宿直の武士は怪しんで刀で斬りつけた。するとその宿直の武士は急に高熱を発して苦しんだ。翌朝、寒山拾得の石像の石像を見ると頭から背にかけて刀疵が出来ていた。それ以来、秋月家に異変が起こるとこの傷跡が夜泣きして知らせたという。
このように不思議な伝説を持つ石像も前述したように江戸期には滝沢馬琴の兎園小説で取り上げられ、さらに昭和初期の「麻布区史」では麻布七不思議の一つとして取り上げられている事からも、当時多くの崇敬・畏怖を集めた異石であったことが伺えます。
像は正確に言うと「寒山」と「拾得」という二人の人物の石像で、画像の右の筆と巻紙を持っているのが「寒山(かんざん)」、左側のホウキを手にしているのが「拾得(じゅっとく)」です。この二人はワンペアで画題や名などとしてよく描かれますが、中国・唐時代の伝説的な僧です。寒山は巌窟に住んで詩を書き、拾得は寺の掃除や賄をしたといわれ、拾得は寒山の分身とも言われ、二人は奇行が多いが、奔放で無垢な童心を失わず俗世を厭い天台山国清寺に住んだ自由人といわれています。また、日本では、寒山は文殊菩薩の、拾得は普賢菩薩の化身とされています。
宮崎県高鍋城址(舞鶴公園) |
江戸期をがま池のほとりで過ごした石像も明治になると、藩主別荘のあった神奈川県藤沢市片瀬に移設され、さらに大正期には旧領知の宮崎県高鍋に移設されました。
最後の当主秋月種英の婦人須磨子はことのほかこの石像を大切にしており、東京に転居する際には高鍋の地元住民に「くれぐれも石像を大切にするように」との言葉を残しています。そして現在も高鍋城址(舞鶴公園)に安置されている石像は、地元で「かんかんさん」と呼ばれて親しまれ、毎年5月10日にお祭りが催されているそうです。
・材質:砂岩
・石像背面の碑文
天文十八年巳酉孟夏下□日
富□山人一□老袖□安置
大工文甫
寒山拾得の石像 |
高鍋藩秋月氏上屋敷今昔 |
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