江戸の頃、五嶋家門前にあった要石は塩を供えて願いをすると、足の病に効能があり永坂の脚気石」とも呼ばれ評判を取ったそうです。道の真ん中にあり、通行の邪魔だと取り除こうとしましたが、氷山の一角ではないが根が深く、びくともしなかったそうです。明治になり、露出した上部は取り除かれたましたが、果てしなく大きな根はいまだに土中にあるといわれています。
ご存じの方も多いと思いますが、江戸期の地図は屋敷主の氏名が書かれた上方に正門があるという決まりがあり、後藤家の場合は鳥居坂からロアビルまでの通り沿いにあったことがわかります。
この麻布の要石のほかにも、鹿島神宮・香取神宮の要石が有名です。
その他にも滝沢馬琴「兎園小説」の中で、城南読書楼教授であり、林一門の五蔵の一人の大郷信斎は「麻布学究」という名で麻布の異石を述べています。
○秋月家の庭にあった三尺ほどの寒山拾得の石像。
前記事参照○長谷寺にある五~六尺の夜叉神像
こちらも以前は秋月家にあったが長谷寺住職が霊夢により寺に移したと言われる。岡本綺堂が半七捕物帖で夜叉神堂として取り上げている。昭和20年空襲により消失。現在は復元された夜叉神像が安置されている。○山崎家の陰陽石
がま池のほとりにあり「結びの神」といわれました。
○日月(じつげつ)の石
森川家別邸(広尾橋辺)にあった烏帽子形の石で二尺ほどで日月の像が出ていた。園丁茂左衛門というものが霊夢により郷里、越後の畑中より掘り出した。道聴塗説十編には、そして上記5つの異石とは別に、祥雲寺前の橋爪に森川家の別荘あり。ここに住める下部茂左衛門といふ者、今年正月霊夢により、其の郷里越後国頸城郡荒井東吉城村にて、三月二日長さ二尺余、広さ一尺計り、その形少しく烏帽子の如く、左右に日月のかたち突起せるを堀出し、これを負うて江戸に来り、件の別荘に安置しければ、近隣聞き伝えてあつまり観る者多し。目出度き石と申すべきか。とあります。
予が家の傍に、字を鷹石といふ町あり。昔鷹形ある石を堀出して霊異あり。今はなし。と、鷹石についての記述がありますが、兎園小説が書かれた江戸末期の文政年間(1800年代初頭)にはすでに元地の東町には鷹石が存在しなかった事がわかります。
兎園小説とは文政8(1825)年から文政12(1829)年まで滝沢馬琴の呼びかけで当時の文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談を披露し合った会「兎園会」におけるオカルト・ホラーや都市伝説、奇人変人から忠義、孝行話などまとめた書です。