2012年10月21日日曜日

明治の麻布水道

あまり知られていませんが、麻布区は明治初期、他に類を見ない「区営上水道」を造りました。

1879(明治12)年9月、明治天皇は市民の衛生施設の改良・発達を望まれ、その資金として市民に七万円の下賜があり15区に分配されました。 これによって麻布区にも2,000円あまりが下賜されました。この時、麻布区では初代区長の前田利充をはじめ、多羅尾慶、竹中萬寿藏、笠井庄兵衛、平原嘉兵衛らの提案により、区議の決議を経て、この下賜金を主にして水道を開設することを企画し、華族10名の願書を添えて、府知事の許可を請願しました。

この計画は麻布、赤坂、芝の3区に給水するものでしたが、発案した麻布区が工事を施行し2万円の予算で、内訳は1500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16700円、不足分は区の共有金から支出するというものであったそうです。またこの水道の使用料は井戸一つが年税4円とし、寄付をした有志については500円につき井戸一つを免税とし、それ以上は500円毎に1井戸ずつ免税されることに決まりました。

1880(明治13)年に4月府知事の許可を得た麻布水道は、工事を府に委託し再三の折衝を繰り返して明治14年11月に着工し、翌15年に完成しました。水道は玉川上水を四谷大木戸で分水し、ほぼ旧青山上水の道筋を引用した形で、裏大番町、表大番町を経て麻布区に入り、5線に分れた。1つは三河台町、市兵衛町から赤坂霊南坂に至り、1つは仲町、飯倉6丁目、榎坂から芝区栄町に至りました。そして、この2線は江戸六上水のひとつ旧青山上水と同じ経路でした。
 というより青山上水の木管を再利用して通水しました。ちなみに青山浄水の開通は万治三(1660)年で廃止された享保七(1722)年ですので200年近く前の木管を再利用して通水を計画したことになります。

三田用水と分水

また1つは龍土町、材木町、桜田町、三軒家町、本村町を経て仙台坂に至りました。その他1つは、ソビエト大使館から東京天文台に至り、最後の1つは榎坂下、飯倉3・4丁目から赤羽橋に至りました。そしてその麻布水道も明治17年には井戸数189、使用者は920戸を数えたといわれています。

しかし、明治16年夏頃から水量が減るようになり市兵衛町線と飯倉町線を隔日の配水とし、漏水個所を修理したが水量は復活しなかったそうです。この水量減少は200年も前の木管を流用していたことからの漏水に他なりません。

このため麻布水道は維持困難に陥ってしまい、17年12月に工費未納金の免除、その他の経費の返還を条件に、麻布水道を府下の一般水道に編入するための請願をしました。これにより翌18年1月に麻布水道は東京府の玉川上水線に編入され府の管轄となりました。このように短命に終わった麻布水道でしたが、明治の初期に区民の自主的な努力によって建設されたもので、水道史上に誇るべき事柄であると「港区史」は力説しています。
そして麻布水道が区の管轄を離れる際に、麻布区会議場敷地内に碑を建設しその功績を称えたといわれています。

その他、明治の水道で麻布近辺に関連した当時の新聞記事を以下に。

○麻布水道(明治13年9月11日、東京日日新聞)






麻布区の水道は本月中より着手するよし、先づ最初は四ッ谷大木戸より大番町まで引き、跡は来春を待て布設すると云う。此の工事はすべて土木用達会社にて受負ふよし。







○東京水道(明治23年8月8日、東京日日新聞)






水道設計は先頃、告示ありし如く南豊島郡千駄ケ谷村旧戸田邸に沈澄池及び濾水池を設け蒸気喞筒にて十八尺の高地給水管(口径36吋)のものへ注入して四谷、麹町、神田、小石川、本郷の各区へ送水し、其吐水口は神田三崎町、常盤橋、雉子橋の各地へ設け、他の一は四谷伝馬町辺より赤坂、麻布、白金台に至りて高輪より品海へ疏通し、低地給水管も同沈澄池より口径42吋の水管を通じて麻布宮村町の浄水貯池へ送水し、同所より芝、日本橋、下谷、浅草、本所、深川に至り洲崎遊郭を経て海に入り、他の一は沈澄池より小石川伝通院下の貯池へ送水し、同所より牛込、小石川、本郷、神田等の各地へ送水する筈なれば市街道路には地中に水管のあらざる所なし、恰も人体に脉路の通ずる如くならんと云ふ。








○井戸端の水喧嘩(明治26年8月15日、時事)






東京下町通りの掘井は最合に使用する水量の涸れて人民の迷惑を感ずる事は、毎度、紙上に記載せしが、其後も、日々、照り続き、稀に昨日の如き驟雨あるも、是は東京の一部に止まり、小石川の雨はにて日脚を望み、深川の潤ひは四谷にて水を撒く位なれば、中々、井水に影響を及ぼす程の喜びにあらず、芝三田四国町の如きは豆腐店の傍に最合井戸ありて水の出方多きも汲みの劇しき為め、日中は全く淤泥と為り、未明に群集して汲取り居りしが、これすら後れては選択もの々用に立ち難く、最早、十日前より午前2時に起きて汲み取る騒ぎに、毎度、紛争絶へず、果ては先を争ふて夜間、安眠すること出来ざる程なりと。
なを、この項を書いた当時の1999年2月8日付けの読売新聞朝刊(首都圏版)都民版の東京伝説に、近代水道誕生の記念碑として淀橋浄水場の記事が掲載されていて、明治期の水道の様子が詳細に語られています。






麻布水道流路図
(港区史より引用)



























麻布水道流路図2
(港区史より引用)







※追記

現在六本木ヒルズ住宅棟となっているあたりに六六再開発まで営業していた「原金魚商店」は釣り堀と金魚養殖をしていましたが、明治期の地図を見ると、
四角い人工的な池が並んでいます。
全くの私見ですが、この四角い池群はもしかしたら、麻布水道の「宮村貯水池」ではないかと思っています。
ちなみに「曹洞宗大学林」と書かれた赤い建物は現在のテレビ朝日社屋にあったも後に駒沢に移転して駒沢大学となります。そしてその北西には現在の「毛利池(昭和期にはニッカ池)」が描かれています。





「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」から、
「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」図(明治16年10月)