2012年10月22日月曜日

麻布原の首塚

慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人・玉蔵院忠義法師により供養されたといわれています。しかし、塚自体が現存せず「麻布原」を港区以外とする説もあり正確な場所は分かりませんが、増上寺隠居所(暗闇坂上)あたりと言う説と、西町近辺という説があるようです。また一本松を首塚とする説もあるようです。

一本松坂上の旧西町付近
武徳安民記には、

  「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数
福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を
大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院
忠義に命じ供養せしむ」

とあります。


しかし、関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日に行われた大会戦であり8月28日に首があるはずがありません。そして9月15日には家康は関ケ原に布陣していたので、江戸で法要を営む事など出来る筈も無く疑問が生じたので、この期間の家康の所在を調べてみました。
(青字は家康江戸在府)



慶長5年(1600年)7月21日
家康会津征伐のため江戸を立つ。




一本松付近
7月24日
家康小山着陣。翌日、諸将を集めて上方の異変を告げ、軍議する。




7月28日
諸将小山を陣払いし、西征の途につく。




7月29日
石田三成、近江佐和山より伏見に到着。





8月1日
西軍伏見城を陥落。城将鳥居元忠、松平家忠ら戦死。





8月4日
家康小山より江戸に戻る。





8月10日
石田三成、美濃大垣城に入る。





8月20日
石田三成、島津惟新の兵をして美濃墨股城を守らせる。





8月22日
福島正則、池田輝政ら木曽川を渡り竹ヶ鼻城を落とし、岐阜城に向う。





8月23日
福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、
一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将、織田秀信の岐阜城を陥落。





8月24日
徳川秀忠の中仙道軍宇都宮を発し信濃に向う。




東軍東海道先発隊、赤坂の高台を占領。大垣城に対峙する。





8月25日
西軍毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落する。





8月26日
石田三成美濃大垣より近江佐和山に帰る。





9月1日
家康兵3万を率いて江戸を進発。





9月2日
西軍大谷吉継、越前より美濃に入る。





9月3日
家康、小田原着。秀忠、小諸到着。





9月4日
家康、三島着。





9月5日
家康、駿河清見関着。




9月6日
家康、駿河島田着。





9月7日
家康、遠江中泉着。




西軍毛利秀元、吉川広家美濃入り。




9月8日
家康、遠江白須賀着。小早川秀秋の使者が家康の宿陣を訪問。





9月9日
家康、三河岡崎着。





9月10日
家康、尾張熱田に着。秀忠、上田城攻めを中止する。





9月11日
家康清洲城着。秀忠美濃に向う。





9月13日
家康、岐阜着。先鋒の諸将、来謁する。





9月14日
家康、岐阜を発し正午ころ赤坂に到着。





9月15日
美濃関ケ原において大会戦、東軍が勝利をおさめる。

 
このように家康が江戸に居たのは8月4日~9月1日までであり、9月15日以降家康は大阪に向い江戸に帰ったのは翌年の11月であるようです。関ケ原の首実験は確かに行われていましたが、その場所は当の関ケ原で、麻布ではないようです。それでは、麻布の首塚とは?

再読すると「八月二十八日岐阜より使節参着して.....」の部分を見落としていました。このあたりで1,000以上の首か落ちるような戦いは、一つしかありません。それは、8月23日に行われた岐阜城攻めです。

この戦いは関ケ原大会戦の前哨戦とも言えるもので、西軍に属する織田信長の嫡男秀信の守る岐阜城を福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将が攻撃し陥落させた戦いでした。
暗闇坂上
8月23日正面の追手口を福島正則が、搦め手から池田輝政が攻撃を開始し本丸めざしました。しかし先鋒の福島隊は七曲口の激戦で進撃を阻まれ、その間に搦め手の池田隊が本丸に突入して城は陥落し、城主織田秀信は剃髪して高野山に向いました。この時、織田側で最後まで生き残ったのは、側近の者数十名を数えるのみであったといわれています。

これはあまたある中世合戦の中でも異例で、四方を包囲してしまうと死にものぐるいで自暴自棄の
戦いを仕掛けられるので、一方向以上を女子供や逃走者のためにあらかじめ開けておき、そこから離脱させたそうです。しかし、今回の岐阜城責めでは、豊富恩顧の東軍方大名の動静を家康は信じていないので、むりやりその信を得ようと東軍諸将は殺戮の限りを尽くしたようです。

前日から先陣争いで仲たがいしていた福島正則、池田輝政であったが事を憂慮した軍監の井伊、本多によって岐阜城攻めの先陣は両将同時入城という判定を下し、事無きを得ました。
そしてこの戦いは、小山から江戸に戻った家康が東軍の秀吉子飼の諸将への「踏み絵」的な要素も持っていたようです。家康は、この戦いで先を争って手柄をたて、首をわざわざ江戸まで送って来た秀吉子飼の東軍諸将にやっと安心して9月1日に江戸を発することが出来ました。(家康は西軍諸将に裏切りの催促の手紙をこの時期乱発していましたが、自らも東軍の裏切りを最も恐れていました。)

切り取られた首級は続々と東海道を登り、江戸の家康へと送られました。そして、その後も首は続々と送られてきた様で、家康が合戦に参加する決意を固め、9月1日江戸城を発しようと桜田門まで来ると、美濃の軍監からの使者に行き会い首を見参にいれたいとの事で、芝増上寺門前に首桶のまま並べて行軍を休止して実験したといいます。

武徳安民記に記載された、

福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八

を合わせると、430+490+308=1,228


これらから、麻布原の首塚はそのほとんどが織田秀信家臣のものであると思われ、またこの戦いは前記のように関ケ原の戦いの前哨戦の意味も持ちますが やはり、9月15日の大会戦とは、はっきりと区別して「岐阜城攻め」としたほうが良いと思われます。そして、合戦から399年を経た現在も、麻布原の首塚は発見されておらず、元の麻布氷川神社近辺とも、西町近辺とも言われる塚の所在の謎はつきませんが 郷土資料などによると、

この首塚の場所を、
麻布西町6番地辺
と麻布区史(986ペ-ジ)は明記しています。

そして港区史(上)216ペ-ジにも、
元スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年首を埋めたという首塚があり、戦前まで家が建たなかった。

また、218ぺ-ジには、
このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。

とあります。

またこの塚を供養した「源誉」とは家康が江戸入府する際に知遇を経て、増上寺が将軍家菩提寺となる基礎を築いた増上寺第12世で、後に普光観智国師の号を贈られた高僧です。

麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりで、現在高層マンション工事中の場所となります(この文章は1999年頃書きました)。私の子供の頃、このあたりは小さな建売住宅が並んでいましたが、首塚の話を聞いた事はありませんでした。また現在まで遺骨が出土したという話もありませんので、事実はわかりません。また、この話を調べるうちに江戸宝暦年間の「怪談老の杖」に暗闇坂付近の話として、

くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土二三間が間くづれて、下のがけへ落ちたり。そのあとより、石の唐櫃出たり。人を葬りし石槨なるべし、中に矢の根のくさりつきたるもの、されたる骨などありしを、また脇へうずめける。そののち、その傍に井戸のありしけるそばにて、下女二人行水をしたりしに、何の事もなく、二人とも気を失ひ倒れ居たるを、皆々参りて介抱して、心つきたり。両人ながら気を失いしは、いかなる事ぞといひければ、私ども両人にて、湯をあみをり候へば、柳の木の陰より、色白くきれいなる男、装束してあゆみ来たり候ふ。恐ろしく存じ候ひて、人を呼び申さんと存じ候ふばかりにて、後は覚え候はず、と、口をそろへて言ひけり。その後、主人の祖母七十有余の老女ありけるが、屋敷の隅にて草を摘まんとて出で行きて見えず。御ばば様の見え候はぬ、と騒ぎて尋ねければ、蔵の後ろに倒れて死し居りける。そのほか怪しき事ありしかば、祈祷などいろいろして、近頃はさる事も無きやらん、沙汰なし。確かなる物語なり。
とあり古来よりこの付近では怪奇現象がおきていたと思われますが、首塚との関連は記されていません。












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