一の橋際の3基の水車 |
以前三田用水を調べていたときに、「近代東京の水車-[水車台帳]集成-」という本を読んでいて面白い記載を見つけました。
それには、明治の初期に一の橋から現在の小山橋あたりに三基の水車があったことが記されていました。
この時期、天現寺橋から一の橋にかけての古川の両岸は元旗本青山家の青山八郎右衛門による新田開拓が行われ、八郎右衛門新田(後の麻布新広尾町)と呼ばれていました。余談ですが、この八郎右衛門は養子で妻が旗本青山家の娘でした。この八郎右衛門の妻と
後にクーデンホーフ光子となる青山光子は従姉妹同士でした。
一の橋際にあった青山八郎右衛門邸の傍に3基の水車があり、二基は精米水車、一基は活版印刷水車でした。この印刷水車は対岸の三田小山町にあった日本でも有数の製紙工場「三田製紙所」で作成された紙の印刷に用いられたものと思われます。
※三田製紙所
旧薩摩人で当時米穀取引所頭取であった林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で明治8(1875)年に三田小山町に設立し、地券用紙などを抄造した。この工場は大阪の蓬莱社製紙部、京都のパピール・ファブリック、神戸の神戸製紙所、日本橋蠣殻町の有恒社、王子の抄紙会社(後の王子製紙)などと共に日本でも草分けの製紙工場であった。また明治13(1880)年に真島襄一郎へ
工場が譲渡される際に記念として同郷人の
これら三基の水車は私たちが考えているような「のどか」な水車というよりは、動力に「水車」を使用した大規模な工場と考えた方が良さそうなもので、
三田製紙所 |
No. | 設置河川 | 名 称 | 水車所在地 | 用 途 | 諸 元 | 備 考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 古川筋 | 河内明倫水車 | 麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田134番地 | 精米 | 水輪2丈3尺・搗臼90台 | 譲主:山川平蔵・明治16年更新 |
2. | 古川筋 | 松本亥平水車 | 麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田133番地 | 精米 | 有堰・搗臼80台 | 明治16年更新 |
3. | 古川筋 | 松本亥平外1名 共有水車 | 麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田134番地 | 活版印刷 | 水輪1丈8尺幅3尺・馬力2.0 | 明治13年新設時名義人: 青山八郎右衛門 |
しかし、この水車については、大きな疑問がありました。それは上げ潮時や潮止まりに水輪が逆回転または停止しないかというものでしたが、東京都公文書館にその疑問を解決するヒントが残されていました。それは「揚水機」と呼ばれるシステムで、水車の水輪をそのまま川に入れて下方から動力を取るのではなく、「揚水機」を使用して川から一旦水をくみ上げ、その水を水輪の上方から落とす。という方法がとられていたようです。
このほかにも渋谷川・古川水系には多くの水車がかけられていましたが、そのほとんどは、渋谷川・古川から水をくみ上げるのではなく、高台の尾根沿いにあった三田用水から分水を引いて、
その高低差を利用しての落水で水輪を廻していたようです。そして使用済みの水を渋谷川・古川に排水していました。しかし、一の橋際ではこの方法を取ることが出来ないので、揚水機を使用したと思われます。この揚水機については様々なタイプがあったらしく、明治初期には多くの業者が勧業省に対して自社製揚水機の登録を依頼している文章が東京都公文書館には残されています。
八郎右衛門の名が刻まれた 廣尾稲荷神社献灯 |
また、最初にこの水車を作ったと思われる青山八郎右衛門ですが、自らが開拓した農地「八郎右衛門新田」を宅地化して分譲販売・賃貸を始め、時事新報の資産家名簿に毎回名を連ねる常連となり、その収益は莫大なものとなりました。この土地の開拓に多くの麻布広尾町の住民が関わったため住宅地となった新しい土地の町名は「麻布新広尾町」となりました。残念ながら麻布新広尾町を現在に伝えるものは一の橋ツインズ裏の児童遊園の名称くらいしか残されていません。また開拓に従事した青山八郎右衛門の名は、つい昨年まで五の橋脇に残されていた「青山橋」と、廣尾稲荷神社境内にある献籠に刻まれた寄進者名でしか確認することが出来ません。
そしてその青山八郎右衛門の次男として1901(明治34)年に誕生したのが、白洲正子、宇野千代などの師匠となり、自身も二の橋際に1970年代まで住んでいた青山二郎です。
新広尾公園 |
青山橋 |
青山八郎右衛門邸跡 |
青山二郎邸跡 |
水車があった付近 |
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