2012年10月7日日曜日

福沢諭吉の狸橋水車

狸橋と由来碑

江戸時代、天現寺橋近くの「狸橋」を渡った白金側一体は「狸蕎麦」という地名で呼ばれていました。

 これは麻布七不思議の一つに数えられることもある伝説の狸を埋葬したとも、またこの付近に狸が出没したともいわれることからついた里俗の地名ですが、狸橋を渡った左手に明治期まで蕎麦屋がありました。その蕎麦屋に頻繁に遊びに来ていたのが福沢諭吉で、やがて福沢はその地を買い取り、その後も引き続き住まわせていた元の蕎麦屋主人と将棋を指したり、付近の散策をするのを楽しみとして、その地を別荘として使用しました。
そしてその敷地には水車があり、福沢はその水車を使って米つき水車・狸橋水車を経営し、その利益で塾生の食費をまかなったといわれています。
水車があった「狸蕎麦」
この元蕎麦屋から福沢が購入した土地は2200坪もあり、のちに慶応幼稚舎、そして一部は福沢が北里柴三郎に寄贈して北里研究所が建設されることとなります。

福沢はこの取得した狸橋水車を渡米中であった長男一太郎名義として水車業登録をしており、現在の目黒駅付近を通っていた三田用水が現在の日の丸自動車学校付近で分岐し白金分水となって下る水流を使用して敷地内に引き込んで使用し、その後古川へと放流していました。この古川への合流口が現在も狸橋脇に残されており、四角い大きな口を開けています。
余談ですが、この白金分水は元々江戸元禄期に本村町から富士見町にかけて整備された
麻布(白金)御殿への上水給水のため設置された分水とされており、当時は白金側の斜面を下った分水を古川を超えて麻布側の斜面まで流すため、古川には堅牢な水道橋か、掛樋が使用されていたといわれています。

そしてこの狸橋水車は、明治22年現在、精米業として登録されており 4馬力の仕事量、雇人は男2名女1名の計3名、年間の収益は420円とあり、目黒通り方面の三田用水と現在自然教育園となっている池の水を合わせた水流は豊富であったと思われ、敷地内水車脇の池には豊富な水が湛えられていたといわれています。この様子を福沢諭吉の四男大四郎は、
~広尾の別荘には池があった。三尺くらいの川から水が来て池になっていた。私が子供の頃、そこに小さい船を浮かべて遊んだ。~
と後年語っています。



やがて福沢はさらにもう一つの水車を現在の都営広尾アパート付近に設置し、本人福沢諭吉名義で水車業登録をしています。この広尾水車と呼ばれた水車はは笄川下流部にかけられており、後年には三男の三八が相続し天現寺橋脇に移転して操業しています。






福沢家所有の水車(近代東京の水車-「水車台帳」集成より)
名 称 取水 営業権 所在地 用途 諸元 備考
狸そば水車 三田用水
白金分水路
福沢一太郎 芝区白金三光町
字雷神下165番地
狸蕎麦 精米後に薬種細末 堰高5尺2寸幅7尺3分・馬力2.53搗臼24台 福沢諭吉の長男一太郎名義・鉄製。精米から製薬に変更。ハ-キエルス式水車
広尾水車 笄川 福沢 諭吉 南豊島郡渋谷村
麻布広尾町89番地
天現寺 精米 堰高6尺幅9尺・水輪1丈2尺・搗臼9台 天現寺前笄川対面。諭吉の死後地権は長男の一太郎に、水車営業権は三男の三八が相続
移転後の広尾水車 笄川 福沢 三八 豊多摩郡渋谷村下渋谷
字広尾耕地1942番地
天現寺 精米 水輪1丈・搗臼9台 上記福沢諭吉水車が移転したもの。その後早川徳次郎から田丸兼次郞へ転売








二つの福沢水車
狸橋脇の三田用水白金分水
古川合流口





 








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