大正期の十番商店街 「十番わがふるさと」より |
父の平作は、青山南町で、 「入間屋」という鞄店を営んでおり、 その後笄町で新しくせんべい屋「武蔵野せんべい」を開業し、やがて麻布十番の雑色通り(現在の十番会館あたり)に移転しました。笄小学校の在校時から「20日ネズミ の健ちゃん」と言われ、すばしっこいガキ大将だったというエノケンも、店の移転と共に十番に住みましたが、南山、東町、埼玉県川越 の小学校、麻布尋常小学校と転々としたそうです。(一説によるとあまりの”腕白”だったので東町小学校を放校になったとも言われます。)
その腕白はエノケンが先妻の子で、後妻には6人の娘がいたため、寂しさを紛らわすためであったとも言われます。エノケンはこの 後妻にはなつかず、父親病気の時、後妻の作った焼き魚を美味しそうに食べているのを見て、自分はもっと父を喜ばせることが出来ると、 父が大切にしていた鑑賞魚のランチュウを焼き魚にして父に大目玉をくらったという逸話が残されています。そんなエノケンには父親も相当手を焼いたと見え、 死を目前にした父はエノケンを枕元に呼んで「おれの寿命を半分縮めたのは、お前のせいだ。」と言ったそうです。そして当のエノケンも、その時の仕返しと思ってか、死を目前にしたときに父の後妻の顔を見たとたんにむっくり起き上がって「このバカヤロ-!」と怒鳴ったそうです。
あの、「♪おれは村中で一番 モボだと言われた男♪という曲「洒落男」は、白金の叔母ところに手伝いに行った時、夜になると良く物干し台で練習 していたそうです。その時、時計の振り子でリズムをとっていたとわれています。また関東大震災の時は、避難してくる浅草芸人たちを十番で自ら炊き出しをして救援したといわれています。
その後、古川緑波・徳川夢声らと「笑いの王国」、そして「エノケン一座」を結成し喜劇界を席巻してゆくエノケンでしたが、 以外にも本人はこの「エノケン」と呼ばれるのを嫌がったといいます。客やファンがエノケンと呼んでも、何事も無ありませんでしたが、同業者や関係者からそう 呼ばれると返事をしなかったといいます。昭和35年に紫綬褒章を受章し、翌年天皇陛下から園遊会に招待されたエノケンも、昭和45年1月7日肝硬変 で帰らぬ人となりました。享年65歳。墓は榎本家の
長谷寺の榎本健一墓 |
菩提寺西麻布2丁目の長谷寺にあり戒名は「殿喜王如春大居士」そして、墓碑には 「従五位勲四等喜劇王エノケンここに眠る」と記されています。
<追記>
腕白から近隣小学校を転々としていたとされるエノケンですが、南山小学校第37期生・大正5(1916)年卒業者に榎本健一の名前が記されています。
十番稲荷神社にはエノケン(榎本健一)寄進の鳥居がありました。この鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまいましたが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸【おとまる】」さんの本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいました。またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されました。
この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されています。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。
エノケン・市川要吉が寄進した立て替え前の 十番稲荷神社石華表(鳥居)-十番未知案内サイト提供 |
十番稲荷神社 市川要吉銅板 |
十番稲荷神社 榎本健一銅板 |
十番稲荷神社 音丸寄進狛犬 |
十番稲荷神社 音丸寄進狛犬 |
十番稲荷神社音丸銅板 |
品川区天妙国寺「音丸」こと永井海津子墓所 |
同墓所に設置された「船頭可愛や」歌碑 |
★関連項目
・十番稲荷神社
・音丸
・市川要吉