東京統制無線中継所 |
学校が終わると「マイクロウェーブ行こうぜ!」っと誘い合い、競い合いながら一気に坂を駆け下りました。
大人になりいつの日か「マイクロウェーブ」のパラボラが撤去されても関心を持つこともありませんでしたが、鉄輪をガリガリいわせながら遊んだ坂上のあの「マイクロウェーブ」って、何だったのだろう.....。
子供たちが「マイクロウェーブ」と呼んだ建物の正式名称は「日本電信電話公社・東京統制無線中継所」と言い、大きなパラボラアンテナは文字どうり超短波の中継アンテナでした。そしてそのアンテナはあの歴史的な事件を報じる初中継に使用されていました。
昭和38年(1963年)11月23日、アメリカから日本へ初めての衛星中継が放送されました。これは通信衛星「リレー1号」を使用した衛星放送で、当時は「宇宙中継」と呼ばれた。リレー1号は3時間で地球を1周する低軌道衛星であり、放送は両国から衛星を見渡せる約20分間に限られていて20メートルのパラボラを使用しても衛星の微弱な電波を捉えるのは「アメリカで点けた電球の熱を日本で感知する」ようなものだったといわれています(プロジェクトX)。
モハービー地上局から衛星に送られた電波は茨城県多賀郡十王町にある国際電信電話会社宇宙通信実験所の直径20メートルのパラボラ・アンテナで受信(この過程はプロジェクトXに詳しい)し、筑波山を経由してマイクロ波で麻布の東京統制無線中継所(TRC)テレビジョン中継センターに送られ、そこから有線でNHK放送センター(当時は代々木ではなく内幸町にあった)に送り、各民放に配信されました。
※TRC-東京テレビジョン中継(リレー)センターの略
放送経路
米太平洋岸カリフォルニア・モハービー地上局
(リレー1号に向けて1725メガサイクルで送信)
↓
リレー1号
(アメリカからの電波を4170メガサイクルに増幅)
↓
国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)
(直径20メートルのパラボラアンテナで受信)
↓
NHK中継車からマイクロウェーブ送信
↓
石尊山
↓
日立製作所日立研究所屋上(日立市)
↓
電電公社無線中継所(筑波山)
↓
東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)
↓(ケーブル)
NHK放送会館(内幸町)
↓
民放配信
第一回目の放送はモハービー地上局から5時18分に待機指令が来て、午前5時27分に始まる。予定ではアメリカ・ケネディ大統領のメッセージが流される予定でしたが、画面にはテストパターン・カラーパターン・NASAのロゴが繰り返し映し出された後、予定外のモハービー砂漠の映像が流され、演説は始まりませんでした。そのとき日本側関係者は予定外の映像に戸惑いました。実はこのとき流される予定の映像はケネディ演説も含めて「事前に録画されたもの」を送信することが前もって決められていました。その録画も流せない状況とは......。
1963年11月22日アメリカ中部標準時12時30分(日本時間23日午前3時30分)、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺されていました。
しかし、こう書くとまるでケネディ暗殺は衛星中継が始まるまで「誰も知らなかった」と思いがちだが事実は違います。中継関係者も新聞社も初中継の時間までには、暗殺をすでに知っていました。
暗殺事件の第一報はUPIで、入電は午前3時40分。そして同50分までにAFP、ロイター、APと続き4時30分にはついに「大統領の死亡」が伝えられました。この時各新聞社ではすでに都内版締め切りは過ぎており輪転機が廻り始めていました。しかし、各社ともそれをストップしてほぼ三分の一程度を刷り直したといいます。
当日の各紙朝刊は一面トップに、
・ケネディ大統領暗殺さる(読売?版)
・ケネディ大統領撃たれ死亡(朝日12版)
・ケネディ大統領暗殺さる(毎日13版)
とそれぞれ速報で記事は少ないながら掲載しました。話を戻すと、じつは衛星中継関係者も放送前に暗殺を知り、中継が中止となる事に危惧を抱いていました。そこに開始直前の5時14分、NASAから「大統領が映っている部分の放送は取りやめる」という連絡が入り、何が流されることになるのか危惧は深まりました。
結局第一回目の中継は砂漠の映像に終始して終わり、2回目の放送に関係者の不安は募りました。 2回目の放送は同日午前8時58分から予定どうりはじまり、ついにケネディ暗殺のニュースが衛星を経由してもたらされました。その後の放送の詳細や事件の詳細はプロジェクトXや他のサイトを参照して頂くとして、実はこのケネディ暗殺の速報となった 23日の2回の放送の他に、3日後の26日午前4時・午前7時50分にも第二回目の宇宙中継が行われ、容疑者のオズワルドが射殺される瞬間の映像、ワシントンでの国葬の模様が中継され、2回にわたる宇宙中継は成功のうちに終わりました。そして東京オリンピックを迎えた翌年の1964年には静止衛星の「シンコム3号」が打ち上げられ、長時間で安定した東京オリンピック画像の初衛星世界中継が可能となった。この時も麻布のTRCは大活躍をしたものと思われますが、残念ながら詳細な資料は手に入りませんでした。
(この項を書くに当たって「初宇宙中継」、「ケネディ暗殺放送」については比較的容易に資料を手にすることが出来ましたが、 TRCの概要や通常業務、経歴などの書籍・ネット・新聞などの情報は、あまり存在しないようです。これは対テロ・セキュリティ上の保安措置や、N中マニアへの対策からと思われます。)
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