前回は初の宇宙中継に貢献した東京統制無線中継所を紹介しましたが、そもそも通常の「東京統制無線中継所」は、どんな業務を行っていたのか再び資料を探し始めました。しかし、残念ながら前述のとおり資料をほとんど見つけることが出来ませんでした。
そこで一般的な事項としてNTT中継回線で検索すると、
電電公社からNTT(分割後はNTTを起源として発足した会社等)が所有、管理もしくは運用する、映像、音声、データ伝送などのための電気通信用回線のことであるが、主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送により、日本列島を縦貫するように結ぶ手段のようである。当然前項の宇宙中継も麻布の「東京統制無線中継所」が担当したのは筑波山→東京間の国内中継であるので、これに含まれる。そして民放が誕生するとキー局と地方局を結びニュース素材や番組を送信する手段として使用された。また、NHKのNTT中継回線は、アナログ放送・デジタル放送ともに2004年3月頃に完全にデジタル回線(光ファイバー伝送)に移行。さらに全民放128局の全国回線も2006年6月4日深夜に完全にデジタル回線に移行し、この日をもって1960年代にかけて全国に拡大したマイクロ波を用いた中継回線は52年間続いた役目を終えた。(北海道NTT道内中継回線は2008年終了と予定されている。)
とのことで麻布の「東京統制無線中継所」は主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送を行う施設であったことがわかりました。そしてその創立は東京-名古屋-大阪間が開通した昭和29年頃かと推測しました。.....と書いたところで参考となると思われるサイトを発見しました。それはNTT退職者のコミュニティサイト「電友会」というサイトで、東京無線支部の「思い出」のなかに麻布の「東京統制無線中継所」とよく似た建物を見つけました。しかし確証がもてなかったのでメールで連絡したが、返事を頂くことは出来ませんでした。
そこで同じページに写っていた「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」が麻布にも残されていればこのサイトの画像が麻布のものであることが確定されることに気づき、さっそく現地に向かいました。しかし今はマンションとなっておりやはり違うのかと思い始めたが、ふとマンションの境界線あたりに、あきらかに敷地の雰囲気とは違う緑地をみつけ奥に入ってみると、「マイクロウェーブ幹線創始の地」と書かれた碑が、静かにたたずんでいました。そして、これであのサイトの画像は麻布の「東京統制無線中継所」であることが確定しました。
使用の許諾が取れていないので画像をお見せできないのが残念ですが、昭和29年開業当時の中継所はアンテナは2基のみ南東方面に丸ではなく四角いパラボラアンテナ?がついていて、1958年(昭和33年)東京-仙台-札幌開通時には、丸く見慣れたアンテナが北東方面に2基追加され、さらに1960年(昭和35年)東京-金沢-大阪開通では北西にさらに2基追加され6基のアンテナに、そして1968年(昭和43年)の画像では私たちの見慣れたアンテナになっています。そして中継経路も名古屋・大阪方面の場合、麻布から送信した電波の最初の中継は神奈川県磯子の円海山、次が箱根の双子山そして静岡県清水市山原(やんばら) ~栗岳と続いていることもわかりました。
さらに別の「科学新聞」サイトの「科学者が語る自伝」に元NTT副社長桑原守二氏の項に、
(抜粋はじめ)~昭和三十二年十月末から、今度は現場機関に配属されての養成訓練である。私は東京統制無線中継所(東端と略称した)に配属となった。東端は麻布宮村町にあった。東名阪回線(SF―B1方式)、東仙札回線(SF―B2方式)の統制局である。昭和三十三年五月には東京~金沢~大阪(東金阪)回線が開通し、東京、大阪間がループになった。 東端は全国の無線中継所から兄貴分として尊敬されていた。これは統制局としての権限の他に、優秀な無線の人材が集結していたことによる~ (抜粋終わり)
などとあり、麻布の「東京統制無線中継所」は最先端の技術を担う優秀な人材が集結していたことが伺えます。
○マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑-碑文
昭和29年4月1日東京大阪間を結ぶマイクロウェーブ回線がこの地を起点として開通した。
この回線は4000MHz帯を使用し周波数分割多重市外電話 360回線また放送用白黒テレビジョン信号を、周波数変調方式により伝達するものであった。
無線による周波数分割多重方式は昭和15年米澤滋博士が世界にさきがけ超短波によって実用化し無線の多重化技術の基礎を確立したものである。
戦後黒川廣二博士を中心として諸先輩がこれを発展させ今日の輝かしいマイクロウェーブ技術の進歩をみた。
いまやマイクロウェーブ回線は全国テレビジョン中継はもとより市外電話回線網の中枢をなしている。またこのマイクロウェーブ技術はわが国が開発した自主技術として世界の最高水準を行くものである。
マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑
この碑はこの地がマイクロウェーブ幹線創始の地であることを記念するとともにわが国のマイクロウェーブ技術の発展に寄与された諸先輩の偉大な業績を偲んで建立したものである。
昭和46年12月1日建立
<追記>
東京-名古屋-大阪ルートの全貌がわかったのでご紹介。
東京都港区・麻布~横浜市磯子区・円海山~神奈川県足柄郡・双子山~静岡県清水市・山原(やんばら)~静岡県掛川市・栗ヶ岳~愛知県南設楽郡作手・本宮山~愛知県名古屋市・名古屋中~滋賀県坂田郡・大野木~京都市・比叡山~大阪市・大阪第一端局
しかし、このルートは、昭和43年3月~4月に都内ビル高層化にともなう電波進路の障害のため、麻布宮村町の東京統制無線中継所から、新たに建設された目黒区祐天寺の「唐ヶ崎統制無線中継所」に移されたようです。また、昭和39年12月には、テレビ中継・市外電話回線需要の増大から東京-名古屋-大阪に、全く別の中継所を持つ第二ルートが完成しています。
東京・渋谷統制無線中継所(昭和36年新設)~神奈川県・秦野~静岡県・愛鷹(あしたか)山~静岡県・阿部~静岡県浜松市・引佐~愛知県名古屋市・名古屋中~三重県・石榑~滋賀県・岩間~大阪第二端局
東~名~阪第一ルートのマイクロウェーブ回線の開通日は「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」の碑文によると昭和29年 4月1日とあるが、電電公社・東京電気通信局発行の「東京の電話(下)」によると、
(522P抜粋-始め)
~昭和29年4月16日、東京・名古屋・大阪を結ぶ465.9キロのマイクロウェーブ回線は開通した。記念すべき開通式は、4月15日、東京(東京会館)・大阪(本町電話局)・名古屋(丸栄ホテル)を結んで盛大に執り行われ、東京会場には三笠宮をはじめ各界の代表が招かれて、「テレビ電話」による記念通話がとりかわされ、その模様はNHKテレビで実況放送された。「顔をみて、 "こんにちわ"、ご披露マイクロウェーブ」(昭和二九年四・一五朝日新聞)....もちろん、どの新聞もの、書き落とせぬ写真つきニュースである。開通の当初には、わずか電話三六通話路とテレビ1ルートを通すに過ぎなかったこのマイクロウェーブ施設の登場は、しかし、こんにちの大きくとびらを開いたもの、戦後文化史上に特筆大書されるべき事項であったのである。~
(522P抜粋-終わり)
とあり、日本初のマイクロウェーブ回線の開通が1日か16日なのかは、残念ながら判断することは出来ませんでした。
<Blog化においての追記>
10年ほど前、この東京統制無線中継所を調べる過程で、この施設がかなり政治的な意味合いを持った施設であったことがわかりました。
日本のマイクロウェーブ通信網の整備を促したのはG.H.Q(アメリカ政府)で、当初この施設はテレビ放送網と抱き合わせの設置計画(VOAがありました。
その放送網とは、創立当初から放送網と社名に明記している「日本テレビ放送網株式会社」に他なりません。そしてその陣頭指揮を取っていたのは、読売新聞社主の正力松太郎でした。
この放送網設置計画は「正力マイクロ構想」とよばれ、当初は日本テレビのみがテレビ放送免許とマイクロウェーブ通信網構築を独占することになっていました。
しかしその後の政治的経緯からテレビ放送は土壇場でNHKにも免許が交付されることになり、またマイクロウェーブ通信網構築は国営企業である電電公社に一任されてしまいます。
そして後年、そのバーターとして正力が手に入れたのは「初代原子力委員会委員長」のポストでした。そして今日に至る日本の原子力行政が始まります。
この一連の政治的流れを知りたい方は、
・原発・正力・CIA
・日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」
などの書籍に詳細に記録されています。
気のせいでしょうが、十年前にこの記事を書いたあたりから一時期、当サイトに在日米軍ドメインと自衛隊ドメインからのアクセスが記録されるようになりました。
たぶん気のせいですが......
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