青山長者ヶ丸に住む
御広敷添番の
戸村福松(百表取り)は、
「相馬の金さん」と呼ばれていました。
これは、先祖が
平将門(別名:相馬小次郎)であるため、そして金は幼名といわれるためだそうです。
金さんは、妻子がありながらその生活は滅茶苦茶だったそうで、裃もなく明番で下城する同僚をつかまえて渋るのをむりやりに借りて勤めに出たり、屋敷も荒れ放題で金目のものもほとんどないありさま。
ある日家財の中から最後に残った臼、汚れた刀箱を手にして麻布の質屋を訪れた金さんは、番頭を捕まえて、
「刀箱の中には先祖伝来の宝刀がある。しかしこの宝刀は父の遺言で一度しか見ることができない。そして家督を相続するときにその一度目を見てしまった。そこで中を見ないでこれを10両で預かってほしい」
といいました。すると番頭は、
「中身もわからないものに10両は貸せない」
と言い、押し問答になったそうです。するとそこに主人が現れて先ほどからの話を聞いて、
やはり預かるわけにはいかないといいます。
こんな答えは最初から想像していた金さんは少しもひるまずに、
「家督を継いだもの以外がむりに中を開けると刀が蛇になってしまう。」
と切り返し、質屋に中身を確認させませんでした。
困った主人はそこまでいうなら中を確認しようじゃないかと刀箱を開けると、
「あっ!」
と、箱を放り出すと、その刀箱の中から黒い蛇が這い出してきたのでした。
それを見た金さんは主人を張り倒し、
「家宝の刀を蛇にしやがって、この落とし前をどうしてくれる」
っと、いきまいて、10両の大金をまんまとせしめたそうです。
しかし悪いことはできないもので、この話が江戸中の評判となって公儀の耳に入り、金さんは隠居を命じられ、世をはばかって静かに暮らしたといいます。
そしてその後、汚名返上のため彰義隊に加わり勇戦しましたが、敗戦後行方不明となったそうです。
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青山長者ヶ丸戸村宅 |
金さんが住んでいた「青山長者ヶ丸」の地名は、渋谷城落城後の渋谷氏が住んでいたともいわれ
長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などに名残を残しています。
そして、この黄金長者(渋谷氏)の姫と白金長者(柳下氏)の息子「銀王丸」にまつわる「笄橋伝説」などの伝説が残されています。
★黄金白金長者伝説
鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいました。名の由来は幼名を金王丸といったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存します。
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渋谷金王八幡神社に
伝わる笄橋伝説の笄 |
また白金長者は、柳下氏といい元は南朝禁中の雑式を勤めた家系で、南朝没落後の応永年間(1394年~1427年)頃から郷士となって今の白金自然教育園あたりに住み、江戸時代には元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存するそうです。
この二つの長者は、近隣であったため交流があったと思われ、その有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来です。
白金長者の息子「銀王丸」が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾いました。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、お互いに一目で恋に落ちます。そして、二人は度々逢瀬をかさねるようになります。
ある日二人が笄橋のたもとでいつものように逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ姫に襲い掛かりました。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、二人を救いました。
そして、その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだそうです。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となったということです。
(※ この笄は金王八幡神社の宝物館に現存しています。)
現在は、
笄川こうがいがわ (龍川たつかわ)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまいましたが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいます。そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂が「姫下坂ひめおりざか」という名を残しています。
江戸期の書籍「江戸砂子」の鉤匙橋の項には、
~又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が娘と愛著の事あり。
童蒙の説也~
とあり、また同書「長者が丸」の項では両長者を、
百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさななを金王丸こんのうまる と云。
渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者と
もいふと也。応安(1368~1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかす
かなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。
と記しています。
また、「故郷帰の江戸咄」という書籍では、
それより百人町かかり、長者丸を過て香貝橋に着たり。ここを長者丸云事、香貝橋のいわれを古老の云伝にはむかし此所に渋谷の長者とて長者有けるが、金(こがね)の長者也とて代々おさななを金王丸といへり。是正尊(※土佐坊正尊)が子孫成べし。然るに後光厳院の御代かとよ、其時の長者の子なきにより、氏神八幡宮に祈て女子をもうけたり。此姫十五の春の比、目黒不動に参詣しける所に、白銀村の長者の子をしろかねの長者也とて代々おさな名を銀王丸と申せしが、是も目黒に参詣して御賽前のきざ橋にてかうがひをひろい給う。見ればくりからぶどうのほり物也。是はひとへに明王より給りたる所なりとて秘蔵し、下向の道にて渋谷の長者の娘を見て、恋慕の闇にまよひ、帰りて中だちを頼、千束の文を送りて終に心うちとけければ、忍やかに行かよふ。あこぎが浦のならひあればはやはしはし人も知たるようになる程に、有夜姫をともなひて、館の内を忍出て此橋まで迄来たりぬ。もとは大河にて橋も広長成けるとぞ。渡らんとするとき橋の下より鬼形あらはれ出てさまたげんとす、其時太刀にさしたるかうがいぬけて、くりからぶどうと化、鬼神をのまんとかかる。鬼神も又是にまけじとあらそひけるが、終に鬼神いきほひおとりて、いづちともなくさりうけり。その時またもとのかふがひと成りてここにしづみける故にかうがいはしと云うと也。彼鬼形と見へしは日比渋谷の姫を恋て、色にも出さずして恋死たるものの霊魂なりとかや。彼長者の住ける跡を長者丸と云伝へけると也。かくて追手のもの共来り、二人ともつれ帰りて、渋谷の長者には幸男なければとてむこに取りて銀王を改金王丸とし、銀(しろがね)の長者には子供おほき故に次男を総領に立てけると也。其長者の末孫近き比迄かすかなる百姓にて有ぬるよし今もや有けん
と記して二人の恋の話しと笄橋伝説を伝えています。
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江戸期の笄橋 |
★関連項目
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笄橋
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笄川
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金王八幡神社