2012年11月26日月曜日

天井桟敷館

以前ご紹介した「幻の山水舎ラミネ瓶」のラムネ工場は1961(昭和36)年にラムネの生産を停止して、工場としての役割を終えたとお伝えしましたが、その後1976(昭和51)年にこの工場の外壁を黒く塗って劇団天井桟敷が使用をはじめました。


元麻布の天井桟敷館
20年以上前に私が友達と酒などを飲み、十番から宮村町に向かう薄暗い道を歩いていると、よく異様な集団がジョギングしているのに出会いました。黒い上下のスエットを着て、裸足。そして頭もピカピカに剃り込んでいます。夜道で見ると、目だけが異様にひかり、とても怖かったのを覚えています。
最初は何だかわかりませんでしたが、じきにその人達が天井桟敷の研究生であることが判りました。 昭和51年(1976年)、それまで7年間劇団のあった渋谷から元麻布3丁目の山水舎工場跡に移転してきました。
天井桟敷は寺山修司が、昭和42年に横尾忠則、東由多加、九条映子らと設立。「青森県のせむし男」「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」など次々に公演し話題になったアンダ-グランド劇団です。
麻布に移った天井桟敷は、アングラ(何て懐かしい響きでしょう!)劇団のチケットなどを扱う「アンダ-グランド・プレイガイド」、世界中の演劇雑誌や、国内の映画、演劇書だけを扱った「ブック・コ-ナ-」、小公演、朗読会もできる喫茶室などがあり、空いている時は稽古場としても使用されていたそうです。
当時、私は演劇などに全く興味が無かったので、この異様な人達に興味を引かれる事は無く、建物に入った事もありませんでした。ただその前を通る時、異様なほど真っ黒に塗られた建物と、異様な風体の人達に只ならぬものを感じるだけでした。
そして、寺山修司の死後は、天井桟敷も麻布から姿を消しました。あの前を通ると建物の前で「う×こ座り」でタバコをふかしていた寺山修司の記憶が、今でも時々脳裏をかすめることがあります。

それから数年が過ぎ、三田に飲み友達が多く出来て毎晩飲み歩いている頃、田町のとある飲み屋に入ると生憎店内は混み合っていてカウンタ-席しか空いていませんでした。待ち合わせた友人はまだ来ていなく、仕方無しにカウンタ―に座りあたりを見回すと、どうも見覚えのある顔が目に付きました。
しかし、そんなに親しい間柄ではなかったようで、いくら考えても思い出せなません。そして、やっと思い出したのは、最初のビ-ル瓶が空になる頃で、彼は天井桟敷の人でした。

待ち合わせの友人も未だに姿を見せず、また酔いも手伝って恐る恐る声をかけてみると、やはりそうでした。話してみると以外に普通で、年は私と一つ違い、天井桟敷館の後は、音楽関係の仕事をしているとの事でした。その後、彼は私達と毎日のように飲むようになり、親しくなっていきました。

在る夜、三田でしこたまに飲んだ夜の1時頃、突然彼が「海へいこう!」と言い出し、車を調達してそのまま直行。気が付くと4時には伊豆の田牛(とうじ)海岸に立っていました。海水パンツもないのに、トランクスになりそのままうみへドボン! 一気に酔いが覚め、水中から顔を出して空を見上げると、東の空の朝焼けと反対側には、まだ輝度を失っていない月が同時に見えた。今だにこの日の事を強く覚えているのは、この空をみたからです。
人力飛行機舎

今はこの彼との付き合いも途絶えましたが、たまたま私は、TVで目にした事があります。
その番組は..........子供番組「オ-・レンジャ-」の悪役でした。

この元麻布天井桟敷館は寺山修司の死後、劇団が解散すると建物も解体されてしまいました。
しかし、寺山修司関係の建物として、おもに映像関係を扱っていた三田寺町にある「人力飛行機舎」もあり、こちらの建物は現存しています。
















より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示