扇箱の秘密
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江戸末期の永坂 |
江戸の頃、越前鯖江藩の江戸屋敷に青木一庵という医師がいた。彼には芝に住む北島柳元という医師の友人がいて、二人は共に長崎の出身の上、同じ頃に江戸に出て来た事もあり、大変に仲が良かった。
寛政元年(1789年)の夏、一庵は腫れ物を患い、激痛で寝込んでしまった。そしてたまらずに、柳元に治療を頼むと、腫れ物が化膿して寝込んでいた一庵の病状も、柳元の徹夜の献身的な治療などで回復に向かった。柳元が一安心して芝に戻っていった後、一庵は藩邸で一人やすんでいた。
激痛が去ったとはいえ、まだ痛みが残り、丑三つ頃(午前2時頃)までなかなか熟睡できないでまどろんでいると、「お願いしたい事がございます。」という女性の声が聞こえた。藩中の女性にしては、尋常でないこんな時刻である。怪しいと思いつつ一庵は「どなたですか?」とたずねると、女性は「私は奥州三春(現福井県)の者でございます。」と答えた。元来、一庵は豪胆な気性だったので、「外にいられては、どなたかわかりません。用があるなら中へどうぞ。」と言った。すると女性は障子をあけて部屋に入ってきた。みると20歳位の青ざめた顔をした女性で、着物の柄もぼんやりとして定かでない。一庵は女性に向かって「ここは、出入りの厳しい大名屋敷である。それにこのような時刻に女が一人であらわれるとは合点がいかぬ。お前は狐狸で、私をたぶらかしに来たのであろう。」と言い、脇差を取ると、女性は涙を流し、
「お疑いはごもっともでございますが、私は決してそのような者ではございません。私は申し上げましたように奥州三春でうまれた女でございますが、お察しの通り、実はこの世の者ではございません。お願いと申しますのは、北島柳元様のところに起居している者が所持する、封じた扇箱(扇を入れておく箱)を貰い受けていただきたいのでございます。」
と言いさめざめと泣いた。
「そのようなことなら、私ではなく北島柳元殿のところへ行って頼むのが筋であろう。」と一庵がたしなめると
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現在の永坂 |
「柳元様のお宅の玄関には
御札が貼ってありますので、私のような者は入る事が出来ません。それゆえ柳元様とご懇意のあなた様にお願い申し上げるのです。」と答えた。
「それでは、その扇箱を貰い受けて、その方に渡せばよいのか」とたずねると、
「いえ、お渡しくださらなくても結構です。いづれの地でも、墓所のある所に埋めて、ささやかな仏事をしていただければ、それで望みは果たされます。どうか、この願いをお聞き届けください。」と言ったので一庵は、
「それならば易いこと、柳元殿に申し上げてみよう。しかし、その箱には何が入っているのか」とただすと、
「それは、持ち主にお聞きくださいまし」と言ったまま、姿を消してしまった。
一庵は、どうも不思議な話だと思いをめぐらしていると、とうとう夜があけてしまった。早速、柳元のもとに大至急来るように使いをだして待っていると、ほどなくかけつけた。一庵が昨夜の不思議な訪問者の話をすべて打ち明けると、柳元もおおいに怪しみ、早速自宅に戻って調べることにした。
家に戻った柳元は、三春から来ている弟子を呼んだが、あいにく銭湯に出かけていたのでほかの弟子に、その弟子の持ち物を調べさせた。すると、はたして文箱の中から、封印をした扇箱が見つかった。元どうりにして弟子の帰りを待っていると、程なく弟子が帰ってきたので早速呼び寄せ、柳元は何か因縁のある品を所持していないかと、問いただした。「そのような物は、持っておりません。」と否定する弟子に柳元は、あの扇箱は何かと尋ねた。扇箱と言われて、弟子はうつむいたまましばらく黙っていたが、やがて意を決したのか、頭をあげて
何故、扇箱のことを知ったのか、柳元に問うた。柳元は一庵から聞いた話をすべて弟子に聞かせると、弟子は、はらはらと涙を流し事の次第を語り始めた。それによると.......
その弟子の家は、三春で細々と農家を営んでいたが、ふとした事から父親が病につくと、わずかな土地も人手に渡ってしまい一家は離散した。弟子は口減らしのために菩提寺の奉公に出された。三年ほど奉公してその後、家族は小さな家を借りて住む事が出来、弟子は近所のいろいろな家の仕事を手伝う雇い人となって暮した。やがて寺で修行した弟子は読み書きが出来たので重宝がられ、太郎兵衛という豪農の専属の雇い人となった。弟子は読み書きの能力を生かした、祐筆の手伝いとして奉公したが、日々太郎兵衛の家族と会っているうちに、その一人娘と恋仲になってしまい、やがて娘は懐妊してしまった。
その頃、娘には婿を取ることが決まり思い悩んでいると、娘は私と駆け落ちをして欲しいと言い張った。ある夜とうとう、言われるままに弟子は娘と手を取って出奔してしまった。娘は家を出る時に二百両
という大金を持ち出し、これで商売をして暮そうと持ちかけた。
あてもなしに、しばらく二人は歩きつづけたが、弟子は太郎兵衛からの大恩と一人娘を失った悲しみを思いまた、不本意ながら二百両を持ち出させた結果に天罰を考え、おくればせながら考えを正しくした。近所に娘も知らない太郎兵衛の縁故の家があることを思い出した弟子は、そこに向った。縁者の家に着くと弟子は娘に旅篭と偽り、家の外で娘を待たせ、家の主人に今までの一部始終を語って、頭をついて深く詫びた。すると主人は弟子の正直に心を打たれ、二百両は自分が預かり太郎兵衛に返すことにして、このまま娘を置いていく事が両方の幸せだと説き、返したお金とは別に7両という大金を弟子に与え商売でも始めるように言った。座敷で眠っている娘を残し、主人にその後をまかせた弟子は、娘への恋慕を振りきって江戸へと一人旅立った。
その後江戸で、松平右近の足軽として奉公した弟子は、主人の用事で他出したおり偶然に故郷の知人と行き会い、いろいろと話をしたなかに、太郎兵衛の娘はその後家に帰り、しばらくして出産したが子供は死産で娘も産後の肥立ちが悪く、ほどなく死んでしまったと聞いた。
弟子はその話を聞くと、娘が不憫でしかたなくなり出家して娘と子供の菩提を弔い暮そうと心に決め、父親に出家を願い出た。しかし父親は出家を許さなかったため、せめて髪をおろそう(当時の医者は剃髪した者が多かった)と北島柳元の弟子となった。
ここまで語った弟子が、扇箱をあけると中には髻(もとどり)と菩提を弔うため自分の血で書いた念仏があった。
柳元は話を聞き終わるとおおいに感じ入り、自分の菩提寺である麻布永坂の光照寺の墓地に髪と念仏を納め、髪塚という碑を建てて盛大に仏事を執り行った。
その晩、かの女性が一庵の枕元に再び立ち、供養の礼とこれで思い残すことは何もない。と告げて消えた。その後、柳元の弟子長吉は、かねてからの望みどおりに、光賢寺の弟子となって出家し、その後修行を重ねて武州桶川の西念寺の住職になった。この話は
柳元の友人、清家玄洞という医師が語ったと言う。