麻布氷川神社 末社 高尾稲荷神社 |
この高尾稲荷神社は、戦後道路拡張のため南麻布一丁目(旧竹谷町)から遷座したといわれていますが、江戸期からその元地にあったと仮定すると仙台藩の「邸内社」であった可能性が高いと思われます。
そして高尾とは、俗説とされながらも第三代仙台藩主の伊達綱宗により惨殺されたと伝わる「高尾太夫(二代目高尾太夫・万治高尾)」のことであると想像されます。
仙台藩はこの南麻布の屋敷のほかに品川区大井にも屋敷を拝領していました。品川区が設置したこの仙台藩大井邸の解説板によると、
屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、
その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。
と記されており、この「高尾」がやはり高尾太夫のことであるならば、麻布氷川神社末社の高尾稲荷神社も元は仙台藩邸で高尾太夫を祀った稲荷と考えることもできます。
この高尾稲荷神社の本社は日本橋箱崎町そば(中央区日本橋箱崎町10-7)にある高尾稲荷神社であると思われます。
この箱崎町の高尾稲荷神社にほど近い湊橋の南東詰にある案内板には、
品川区解説板 |
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりましたが明治維新明治五年
当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ最初
の日本銀行開拓庁永代税務署等が建設にあり
高尾稲荷社は只今の所に
移動しおとづれる人もおおかったが
昭和二十年三月二十日戦災
により社殿は焼失いたし
時代と共に一般よりわすれ
られ年々と御参詣人も
日本橋箱崎町 高尾稲荷神社 |
時折り町名変更につき
当町会名保存と郷土を
見なをそうとの意志に
より高尾稲荷社を
昭和五十年三月再建工事
の折り旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋
骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な
史跡史料として見直され
ることになり数少ない
郷土史の史料を守るため
今後供皆様のご協力を
お願い申しあげます。
日本橋箱崎町 高尾稲荷神社 |
とあり、また、豊海橋(北詰西側)の案内板には、
江戸時代この地は徳川家の船手組持ち場であったが、宝栄年間(1708年)の元旦に、下役の神谷喜平次という人が見回り中、川岸に首級が漂着しているのを見つけて手厚く埋葬した。当時万治(1659年)のころより吉原の遊女高尾太夫が、仙台侯伊達綱宗に太夫の目方だけの小判を積んで請出したのになびかぬとして、隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅で染めたと言い伝えられ、世人は自然、高尾の神霊として崇(あが)め唱えるようになった。そのころ盛んだった稲荷信仰と結びつきいて高尾稲荷社の起縁となった。明治のころ、この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(のちに日本銀行開設時の建物)があった。その後、現三井倉庫の建設に伴い、社殿は御神体ともども現在地に移された。
(昭和57年11月、箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会掲出)
(昭和57年11月、箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会掲出)
とあり、そして高尾稲荷神社の由緒書には、
高尾稲荷社の由来
万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門
抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、
艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない
全盛をほこったといわれる。
生国は野州 塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。
その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、
彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを
買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に
捨てられた。
その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え
居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊
高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。
箱崎 高尾稲荷神社 由緒書 |
(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、
縁日には露店なども出て栄えていた。
懸願と御神徳
頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
◎懸願にあたりこの社より櫛一枚を借り受け、朝夕高尾稲荷大明神と祈り、
懸願成就ののち他に櫛一枚をそえて奉納する習わしが昔から伝わっております。
高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
「君は今 駒形あたり 時鳥」
辞世の句
「寒風よ もろくも朽つる 紅葉かな」
昭和五十一年三月
箱崎北新堀町々会
とあります。
「つるし斬り」と呼ばれるこの高尾太夫殺害事件は、一般的には俗説とされていますが、仙台藩においては、その霊魂を慰めようとしていたのは事実ではないかと思われます。このような事例は水天宮や火の見櫓で有名な赤羽橋の有馬藩邸における化け猫騒動を鎮魂する「猫塚(大正期には「永井荷風がこの塚を探索する様を日和下駄に記しています。)」や、目黒区祐天寺の「累塚」にもみられ、当時の人々の信仰心の強さを示すものと考えられます。
文久二(1862)年御府内沿革図書 |
またこの事件も、長くもめることとなる伊達騒動の一部としてとらえることもあります。
最後に、この項を書くに当たっては、仙台藩は大藩であったため多くの屋敷を保有していましたが、時代により呼称が変わることもあり、不確実でしたのであえて中屋敷・下屋敷という呼称は使いませんでした。
また、麻布氷川神社末社の高尾稲荷と日本橋箱崎の高尾稲荷を結びつける由緒や言い伝えは麻布氷川神社にも、その他書籍等にも全く残されておらず、あくまでもDEEP AZABUの私見であることをお断りしておきます。また、高尾稲荷が麻布氷川神社境内に遷座したおりには、すでに合祀されていたと伝わる麻布氷川神社のもう一つの末社である「應恭稲荷神社」については、現在のところまったくその由緒が明らかにされていません。
昭和8(1933)年東京市麻布区地積図 に記載された高尾稲荷と思われる鳥居マーク |
☆関連項目
麻布氷川神社
大蔵庄衛門の稲荷再建
より大きな地図で 高尾稲荷神社 を表示