2012年12月2日日曜日

麻布氷川神社

正式名称:氷川神社

通称:麻布氷川神社

麻布氷川神社
御祭神:素盞鳴尊・日本武尊

末社:應恭稲荷神社・高尾稲荷神社

麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在): 毘沙門天

例祭:9月17日に近い土・日曜日

昔の遊び:こどもの日前後

チャリティ餅つき:12月初旬

初詣:12/31深夜~

所在地:港区元麻布4-4-23



江戸名所図会
七仏薬師 氷川明神
麻布の総鎮守として、また明治期からは行政権も有するといわれる社格「郷社」として人々の信仰を集めた麻布氷川神社は、天慶五年(942)年創建源経基とも、文明年間(1469-1485)太田道灌創建とも伝わる古いお社です。

江戸初期までは、暗闇坂と狸坂をはさんだ2,000坪以上の広大な社域を持ち、社の二の鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もあります)、三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていました。そしてこの場所に現在も残されてい一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれています。
しかし、それまでの社地が萬治二(1659)年に増上寺隠居所となることが幕命により申し渡され、これをもって現在の地に遷座しました。この時付近にあった民家も広尾の祥雲寺門前に移されたため、のちに祥雲寺門前は宮村町代地と呼ばれ、その住民は現在も麻布氷川神社の氏子であるといいます。

増上寺隠居所は将軍家の来訪もあり、特に桂昌院(綱吉生母)と将軍綱吉は隠居していた祐天上人を度々訪問しているようです。また、この隠居所周辺の景観について、三緑山志の著者・竹尾善筑は、文政二(1819)年四月一四日この場所を訪れた際に辺りの景色を「八境十景」として、
閑扉朦月・窓前虫声・斜径散歩・垂絲綻花・山井清澄・氷川鎮祠

秋園芳草・祖塔蒼苔・長伝幽鐘・麻廛炊煙・總山晩雲・赤橋行客

杜間流蛍・芝峰層塔・海路遠帆・孤松膏雨・枯林宿鴉・春天紅霞
と詠んでいます。この中で「氷川鎮祠」と書かれた麻布氷川神社については、本誉上人により開基したときからの隠居所の鎮祠とされ、桂昌院と綱吉の隠居所訪問時には供物を供えて麻布氷川神社を参拝したとあります。

この麻布氷川神社の元地を基準として膝元の村を「宮村町」と呼び、他にも「宮下町」も神社との相対的な位置から町(村)名が名付けられました。そしてこれと二分するように麻布山善福寺を基準とした町(村)名、西町、東町、山元町などが善福寺の門前町として名付けられました(江戸期の正式な町名は「善福寺門前東町」などとされていました)。

文政町方書上では町の起立について、

★宮村町
町名起立の儀、~略~当初は往古より麻布総鎮守氷川の宮これあり候につき、小名を宮村と唱え申し候。近辺に宮下鳥井坂の唱えも当所に社地これあり候ゆえ相唱え候由、しかるところ、右鎮守社辺り寛文二寅年御用地に召し上げられ、増上寺隠居屋敷に相渡り候につき、社は本村の内へ相移り候えども、町名の儀は同様相唱え来たり候。
★宮下町
麻布総鎮守氷川明神宮の下ゆえ町名に相唱え~


などとしており、この他にも「鳥居坂」町の坂名の由来を麻布氷川神社の二ノ鳥居があったことに由来するという説もあります。また、江戸期には神社は必ず寺の管理下に置かれ、社を管理する寺を「別当」と呼びました。麻布氷川神社の別当寺は、麻布区史によると、
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶
とあり愛宕一丁目に現存する真福寺の末寺で、日ヶ窪の朝日神社と共に管理されていたことがわかります。この徳乗寺を調べましたが、当初は所在地も確定できなかったので、徳乗寺を末寺としていたとされる愛宕・棲仙山真福寺に問い合わせました。そして数日後調査の結果をお聞きしました。それによると真福寺は確かに江戸期の徳乗寺が末寺であったことがわかりましたが、それ以上の資料は真福寺にも残されていませんでした。改めて地図などから所在地を確認しましたが、

★「徳乗円院」または「徳乗寺」は、
・文政十二(1829)年の『御府内備考・続編(御府内寺社備考)』 敷地図には見あたらない。

・1861(文久1)年東都麻布之絵図、1862(文久2)年の麻布地図には見あたらない。
という不思議な結果となりました。
しかし、東都麻布之絵図と同じ1861(文久1)年に作成された麻布絵図には麻布氷川神社の境内に徳乗寺と書かれており、寺は神社の境内にあったことが判明しました。

高尾稲荷神社
神社境内に祀られている「高尾稲荷」は戦前まで竹谷町にあり戦後移転された稲荷ですが、社が稲荷とも深い因縁を持つ家系のためから祭祀されたのかは不明とのこと。また ウィキペディアには、関連項目として赤穂浪士の討ち入りの際に吉良邸で茶会が行われる事を浪士に知らせた荷田春満(かだの あずままろ)へのリンクが貼られており麻布氷川神社社家との因縁を示しています。また前述した麻布氷川神社の境内にあったと思われる別当の徳乗寺が所属していた芝愛宕の棲仙山真福寺は、大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ真福寺第七世性偏をして幕府に働きかけていたこともあり忠臣蔵との因縁は浅くないと思われます。

社によると神社の正式名称は「氷川神社」で「麻布」を冠していません。そして江戸期の資料を見ると赤坂氷川社と混同しているものが多く見られます。これは赤坂氷川神社の所在地を「麻布今井」としているものも多くあるので麻布には氷川神社が二つあったこととなってしまいます。 
このためか、江戸七氷川筆頭を自称する赤坂氷川神社は自社を「本氷川」と呼んで区別したとも考えられます。この傾向は各地の氷川神社にも見られ白金、品川なども正式には地名を冠していなません。また江戸期中期以前の麻布は「麻布七ヶ村」とも「麻布十六ヶ村」ともいわれており、現在考えられている麻布の範疇を大きく上回っていました。これにより広い意味では後に掲載する麻布近辺の氷川神社のいくつかも麻布を冠していても不思議ではありません。 
しかし、創建年代が明らかとなっている近隣氷川社のうち、現在の麻布氷川神社が最も古いと伝わるので、この説を元としたいとおもいます。 
麻布氷川神社の創建は、天慶五年(942)年源経基によるものとも、文明年間(1469-1485)太田道灌によるものともいわれますが、もし源経基創建説が正しければ、笄橋伝説・一本松伝説の延長線上にありその由緒は源氏と氷川神社の結びつきが強いと考えられます。

江戸期の逸話として「賤のをた巻」という書では、
~略~翁は次男にて稽古歩行廻る頃養兄と連立ち所々に行く。兄もと烏石が弟子にて麻布一本松の氷川の麻布総鎮守と云額は烏石が書たると語りられし故、彼辺往来する頃心を付て見れば、いかにも烏石が筆と見えて見事なりしが~略~
として松下(烏石)君岳揮毫の額が社にあったことをほのめかしています。

麻布氷川神社が「江戸氷川七社」の一つであるとの伝承がありますが、赤坂氷川神社サイトによると江戸期の書籍「望海毎談」を出典として江戸氷川七社とは、
①赤坂氷川神社
②麻布氷川神社
③渋谷氷川神社
④簸川神社(文京区)
⑤盛徳寺(麻布今井)
⑥羽根田村(新堀近き所の社)-不明
⑦萬年寺山-不明
の七社と定義し、二社が不明ながらもその根拠を示しています。その他、サイトによると氷川神社は全国で261社、都内でも68社あるといわれますが、
麻布の周囲だけでも、
・麻布氷川神社
・赤坂氷川神社
・渋谷氷川神社
・白金氷川神社
・品川氷川神社
と麻布近辺は氷川神社の都内でも有数の密集地帯となっていることがわかります。



麻布近辺の氷川神社
社 名 所在地 創 建 勧 進 備 考
白金氷川神社 港区白金2丁目 不明 日本武尊 創建7世紀頃?白金村総鎮守
麻布氷川神社 港区元麻布1丁目 天慶五年(942)年 源 経基 別説に創建文明年間(1469-1485)
勧進は太田道灌説もあり
赤坂氷川神社 港区赤坂6丁目 天暦五(951)年 蓮林僧正 江戸七氷川筆頭
品川氷川神社 品川区西五反田5丁目 不明 不明 桐ヶ谷村鎮守
渋谷氷川神社 渋谷区東2丁目 不明 日本武尊 7世紀頃?



○美少女戦士セーラームーン
その他、麻布氷川神社は1990年代の人気アニメ「美少女戦士セーラームーン」で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名です。火野レイ(セーラーマーズ)は、祖父が宮司を務める「火川神社(麻布氷川神社がモデル)」の孫娘として誕生し両親と死別後に祖父によりこの火川神社で育てられます。生年は不明。同アニメ作者が執筆当時に麻布十番商店街に居住しており、周囲の情景や歴史をモデルとして使用されたためと推測できます。


○山口瞳の結婚
また、昭和24(1949)年5月28日、作家の山口瞳は鎌倉アカデミアで同級生だった古谷治子との結婚式をこの麻布氷川神社であげています。
○例大祭
麻布氷川神社の例大祭は毎年9月中旬に行われています。 

天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付1

本村町、宮村町、宮下町、竹谷町、新堀町、三軒家町などの所属町会が町神輿・子供神輿、山車を繰り出し町内を巡行したのちに、麻布氷川神社でお祓いを受けます。毎年例大祭は二日間行われ、初日は夕刻本村町・竹谷町・新堀町の三町会で行われる連合渡御と、能舞台で行われる奉納舞いなど、二日目の日曜日は町内を巡行した宮村町・宮下町などの大人神輿が十番商店街で行われる神輿パレードに十番稲荷神社氏子町会神輿と共に参加します。また本村町・竹谷町・新堀町の三町会で行われる連合渡御も三の橋周辺で行われ、祭礼のメインイベントになっています。

一方、西麻布の上笄町会も麻布氷川神社の氏子町会ですが、場所的にやや離れた位置にあるため氷川神社への渡御が難しいため、例年長谷寺の境内において盆踊り、露店などのイベントを開催しています。昭和期の麻布氷川神社例大祭では、境内に露店が数多く出店されており賑わいを見せていましたが、現在は行われていません。しかし昨年(2010年)は境内で大道芸などが行われ、2009年には麻布氷川神社の氏子町会神酒所を巡る「神酒所スタンプラリー」も行われました。

天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付2

また、江戸期の祭礼には各町内が競って人形が乗った山車を繰り出し巡行したそうです。その様子が文政十三(1830)年と天保三(1832)年の祭礼番付けに残されています。しかし、この天保三年の巡行を最後に、人形山車巡行を伴う大がかりな祭礼は行われなくなったといわれています。そしてその30年後の文久二(1862)年、獅子頭(本村町会に現存)が作成されるがその理由はわかっていません。

○宮神輿 千貫御輿
九月の例大祭にはは御輿倉が開かれて、麻布氷川神社の宮神輿である通称「千貫御輿」が公開されます。この千貫神輿は1935(昭和10)に作成されたおりに牛車に乗せての巡行以来、一度も行われていないそうです。 この時の巡行の様子は本村町資料に写真として残されているほか、渡御の様子を絵図とした「宮神輿渡御絵図」が本村町会に残されています。

麻布氷川神社宮神輿
千貫神輿
「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)によるとこの宮神輿は、
神田・宮惣 昭和初期制作 四尺(122センチ)
桟唐戸の細工をはじめ彫刻や彫金も見事な延軒屋根、平家造りの錺神輿
渡御が待望されて久しい神輿の一基でもある。
と記されています。また同書巻末の「江戸東京祭礼神輿年表」には、その出典は不明ながらも麻布氷川神社の祭礼について、
  • 享保20(1735)年八月十七日 麻布氷川毎年例祭
  • 寛政3(1791)年八月十七日 麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休
  • 文政5(1822)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。
  • ※文政13(1830)年 祭礼番付
  • 天保3(1832)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。
    (文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか)
    ※祭礼番付・武内宿弥山車人形作成?
  • 天保9(1838)年八月十七日 麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。
  • 文久2(1862)年 ※本村町獅子頭制作
  • 明治31(1898)年8月17日 麻布一本松氷川神社祭礼
  • 昭和10(1935)年 宮神輿完成



    との記述があります。(赤字部分はDEEP AZABU追記)



現在の千貫神輿は道路事情や電線事情、また神輿自体の老朽化により例大祭時の神輿倉内での公開にとどまっていますが、一刻も早い神輿の修復が各所で望まれています。


本村町会が所蔵する山車人形と獅子頭

麻布氷川神社の膝元、本村町会には江戸期作成とされる大きな獅子頭と山車人形が伝わります。
(これらの情報は十番未知案内サイトに詳しいので興味のある方は参照して下さい)特に獅子頭を御輿に仕立てて町内を巡行するという風習は、同町内に残され麻布七不思議のひとつでとして数えられることもある「釜なし横町」の伝説との因果も想像されるようです。この山車人形の保存に関して昨年NPO法人「麻布氷川江戸型山車保存会」が発足し、保存・修復に向けて動き出す予定といわれています。






○几号水準点
明治初期には「几号水準点」が社の石華表(鳥居)に刻印されていたようですが、現存していません。




○港区内三氷川神社の直列
赤坂-麻布-白金の各氷川神社は古道といわれる道(麻布区史では古奥州道としています)沿いの南北にいわくありげに、ほぼ一直線に鎮座しています。
港区内三氷川直列
【赤坂氷川(創建地:赤坂四丁目一ツ木台地)~麻布氷川(創建地:暗闇坂と狸坂に挟まれた斜面)~白金氷川神社(創建地:現在地)として設定】
大宮氷川神社も中氷川神社・氷川女体神社の三社を結んで一体の氷川神社を形成していたとの伝承、また奥多摩市の奥氷川神社・所沢市の中氷川神社・大宮氷川神社もそれぞれ奥社・中社・本社として配置されたとも言われ、当地麻布周辺においても同様の考え方があったとしても不思議ではないと思われます。 
そして創建年代についても白金氷川神社は不明ながら赤坂氷川神社は天暦五(951)年、麻布氷川神社が天慶五年(942)年と 9年ほどの差しかないことから、想像ながら両社に何某かの関連性があったとしても不思議ではないと思われます。港区内氷川神社の配置からすると麻布氷川神社は「中社」の位置づけとなるのでしょうか? 


○各地の三社直列
ウィキペディアによると、
大国魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、~略~

~略~霊峰富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、大宮の氷川神社、三室の氷川女体神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶ。この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある~略~
との記述があり、三社を直線に並ばせて配置する他所の実例を示しています。

また奥多摩町の「奥氷川神社」~所沢市の「中氷川神社」~大宮市の「大宮氷川神社」の三社は「武蔵三氷川」とされていて、それぞれが奥社-中社-本社の関係にあるといわれます。



○御祭神にまつわる謎
麻布氷川神社の主祭神は素盞嗚尊、配神が日本武尊 とされるが、 大宮氷川神社の御祭神は須佐之男命奇稲田姫命大己貴命です。この3人の神の関係は「須佐之男命」の妻が「奇稲田姫命」でその娘「須世理姫」を正妻としたのが「大己貴命(別名:オオクニヌシノミコトで神仏習合により大黒天も同義)」であり三者は義理含めた同族(※大己貴命が須佐之男命の息子であるなど諸説あるが)です。これにより氷川神社は家族和合の神を祀る神社ともいわれているそうです。

御府内備考続編-(麻布)氷川神社の項には祭神が日本武尊のみが記載されている事から、少なくても江戸中期頃の麻布氷川神社の御祭神は日本武尊のみとしていたことがわかります。日本武尊が東征のおりに自らが崇敬する素盞嗚命を祭った氷川神社で祈願をしたという逸話が各所に残されており (白金氷川神社・渋谷氷川神社・中氷川神社など)その関連が想像されます。

※白金氷川神社の創建年代は不明ですが東京都神社庁サイトには、
日本武尊御遠征の時、素盞嗚尊を勧請した武蔵の国一の宮氷川神社の遙拝所として当所に御鎮座された。
と記されており、日本武尊との関係を明記しています。しかし祭神として日本武尊を祭っている氷川神社は現在私が調べたかぎりでは、この麻布氷川神社と白金氷川神社の二社のみしか確認できていません。 
そして、江戸天保期の大宮氷川社の書籍「氷川大宮縁起」には素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命の三神の他に日本武尊を合祀したとある(日本の神々 神社と聖地Ⅱ関東)ので、麻布氷川や白金氷川の祭神が日本武尊であることは際立って珍しいということにはならないようです。ちなみに江戸元禄期の大宮氷川神社においても主祭神を特定する争いが男体社・女体社・簸王子社の社家間で起こり、決着がつかないので幕府に公訴となり、元禄12(1699)年寺社奉行より三社同格の下知があったとされています。しかし一般的には主祭神は男体社の素盞嗚命、その后である奇稲田姫命を女体社、子供である大己貴命を簸王子社とすることが定説となったようです。



区内三氷川神社の御祭神
社 名 御祭神 御神紋
大宮氷川神社 素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命 八雲紋
赤坂氷川神社 素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命 左三つ巴: 左三つ巴
麻布氷川神社 日本武尊・(素盞嗚尊) 巴紋
白金氷川神社 素盞嗚尊・日本武尊・櫛稲田姫尊 柏紋




○創建と社家にまつわる謎
そして最大の謎は、各地の氷川神社の総本社といわれる大宮氷川神社の社務家を勤めたのが武蔵竹芝といわれますが、麻布氷川神社は平将門の乱において、平将門・武蔵竹芝連合軍の対抗勢力となる源経基の創建伝説を持つのはどのような理由からでしょうか?そして、その武蔵竹芝居館は三田聖坂上の済海寺にあったとされる説(竹芝伝説)もあるので、北関東に勢力の中心を持っていたと思われる武蔵竹芝、源経基の両雄の麻布近辺においての活動に、麻布氷川神社の創建にまつわる謎はさらに深まります。 そして、「日本の神々 神社と聖地Ⅱ関東」という書籍の中では、 武蔵の古社(菱沼勇著)という書籍の文章をを取り上げ、麻布氷川神社・赤坂氷川神社などについて、
「これらの神社の社伝は、もとよりそのまま信じがたいであろうが、その勧進の古いことは事実であることと思われる。そしてこれらの古い氷川神社は、大宮の氷川神社を氏神とする集団が、すでに上代において、武蔵国の各地に分散し、定住して、武蔵国の開発にあずかって力のあったことを物語るものであろう」
と記述しています。






○そもそも氷川神社とは
大宮氷川神社の正式名称は「氷川神社」で大宮とは「大きいお宮」の意味であり、この氷川社があったためについた地名だといわれます。この大宮氷川神社を元社として関東地方を中心としてその擁護勢力の拡大や氏子の移転などから全国に広まったと考えられています。大宮氷川神社の社伝では紀元前473年(孝昭天皇3年)創建とされているようですが他に、
  • 景行天皇(71年~130年)の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したさいに創建された。

  • 成務天皇(131年~190年)の年代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、氷川社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来する。
  •  
    などという説があります。 ちなみにこの「簸川」を社名にした神社が都内に一社だけ存在します。それは、東京都文京区千石の簸川神社です。 現在この「簸川神社」も含めて氷川神社は全国に261社(諸説あり)とされ、そのほとんどが埼玉県と東京都(旧武蔵の国)に集中しているようです。



全国の氷川神社
県名 社数 分布
比率
埼玉県 162社 62.1%
東京都 68社 26.1%
福井県 12社 4.6%
福島県 5社 1.9%
神奈川県 2社 0.8%
山梨県 2社 0.8%
茨城県 2社 0.8%
栃木県 2社 0.8%
島根県 2社 0.8%
千葉県 1社 0.4%
長崎県 1社 0.4%
鹿児島県 1社 0.4%
北海道 1社 0.4%
13都道府県261社 100%



















氷川神社 埼玉県・東京都分布図
















○境内社「高尾稲荷」

境内社の高尾稲荷は竹谷町(現南麻布1丁目)「猿助の塚」付近にあったものを戦後麻布氷川神社境内に遷座したものですが、そのいきさつについて地元の話では、 
・進駐軍による移転命令説
・元祭主の代替わりによる
・道路拡張による移転


















境内社の高尾稲荷は竹谷町(現南麻布1丁目)「猿助の塚」付近にあったものを戦後麻布氷川神社境内に遷座したものですが、そのいきさつについて地元の話では、 
・進駐軍による移転命令説
・元祭主の代替わりによる
・道路拡張による移転

などがいわれています。しかし、その実態は不明です。またある古老の話しによると高尾とは伝説で仙台藩主伊達綱宗により惨殺された二代目高尾太夫(万治高尾)を祀った稲荷社とも伝わり、この稲荷の元地(現在の竹谷町)は江戸期仙台藩下屋敷であったことから、邸内社として祭られていたとも想像されます。この高尾太夫と仙台藩の関連を示すものとして、仙台藩品川下屋敷敷地内(現在の京急鮫洲駅西側付近)にも高尾太夫の器を埋めたとされる場所に枝垂れ梅があったとされています。




高尾稲荷神社
 http://deepazabu.blogspot.com/2012/11/blog-post_6.html



























○麻布氷川神社祭礼時神酒所設置
・本村町会
・三軒家町会
・上笄町会
・富士見町会
・西麻布東町会
・一本松西町会
・麻布十番睦会
・麻布宮村町会
・山元会
・竹谷町会
・東町町会
・新堀町会