江戸時代の正徳(1710年代)の頃、麻布桜田町に伊勢屋という裕福な両替商がありました。
この伊勢屋は店も繁盛し、家族も円満でしたが一つだけ悩みがありました。それは一人娘の「顔」です。娘は元々美形ではありませんでしたが、幼い頃疱瘡を病んで醜いあばたが顔中に残り、気の毒な面体となってしまったそうです。本人もその事を気にして家から一歩も出ようとせず、毎日家の中でくすぶっていました。
やがて20歳を迎えても、娘の元には一向に縁談も来ません。仕方が無いので伊勢屋は相当の持参金を付ける事を条件に、再度縁談を頼みました。しかし、それでもに嫁入り話は全く来なかったそうです。
ちょうどそんな頃、娘ははじめての恋をしました。相手は店の手代で名を「権八」といいます。二人はやがて店の者や家族に隠れて逢瀬を楽しむ様になりました。しかし当時、奉公人が主人の娘に手を出すのはご法度であり、もし見つかれば権八は店を追い出されたしまいます。
二人で幾日も思い悩んだ末、とうとう権八は娘に「駆け落ち」をしようと持ちかけました。しかし二人にとって、落ち延びる先があるわけでもなく、心細い行く先のことを考えました。不安になった二人は悪い事とは知りながら、親である伊勢屋の金蔵から500両という大金を盗み出し、そのまま駆け落ちをしてしまいました...........。
二人は、まだ明け切らない夜道を急ぎ、品川を越えて鈴ヶ森のあたりまでたどり着いたところで、大金を背負った権八は娘にちょっと休憩しようと持ちかけました。疲れていた娘も、これからの二人だけの楽しい暮らしを夢見ながら浜辺に腰を下ろしました。その時、娘の後ろに廻った権八は、物思いにふける娘の首を締め上げました................。
権八にとっては最初から計算していた行動で、娘の事などどうでも良かったのです。ただ、世慣れない娘を騙して金が手に入ればよかったのです。権八ぐったりした娘をその場に置き捨てて、何処かへと去って行ったそうです。
朝になると伊勢屋は大騒ぎになりました。娘と手代が姿を消し、大金がなくなっていることに気づきました。店の者が総出で八方手分けして探すうちに、娘の無残な姿が見つかり、伊勢屋は悲嘆に暮れました。事はすぐに奉行所にも聞こえ、人相書きを諸所に貼り出して「権八」の大探索がすぐさま始められました。当時、主殺しは重罪で、権八の請人(身元保証人)も厳しい取り調べの後に事件とは無関係と判明しましたが、本人の身代わりとして牢屋に入れられ永牢(無期懲役)とされてしまいました。
その後も権八の行方は全くつかめませんでしたが、実は権八はすぐさま江戸に戻って「堺屋五郎兵衛」と名前を変え、元飯田町に500両の元手を使って米屋を始めていました。そしてしばらくすると店は繁盛し、手代や丁稚を何人も抱えるほどになり、願っていた裕福な暮らしを満喫したそうです。
しかし悪運の強かった権八も、一つの些細な事件から身を滅ぼす事になります。
ある日、権八の店で働いていた10歳の丁稚が出奔してしまい、店の金五貫文(5,000文)が無くなっていた。父親を問い詰めると、せがれは、はやりの「抜け参り」に行ったのかの知れないが金など盗むはずがない。と言い張り、譲りませんでした。
そんな押し問答をしている所へ、ひょっこりと丁稚が戻ってきました。早速問いただすと、やはり抜け参りをして来たと行って勝手を詫びましたが、金のことは知りませんといいきりました。しかしどうしても金への疑惑を捨てきれない権八は、奉行所に訴えました。双方の意見がまるで正反対なので奉行も手を焼き、困り果てたが、ある日両人に出頭を命じた奉行は、そこで10歳の丁稚に実際に五貫文の金を持たせてみました。しかし、丁稚が力を振り絞って引っ張っても金はびくとも動かなかったのです。一文銭が5,000枚という重さは大人でも気軽には動かせませんでした。この事から奉行は権八の非を責め丁稚への容疑が出鱈目であったことを責めました。
そして調査の過程で、権八が強欲非道の上、高利をむさぼり、またご禁制の賭博も行っている事まで調べ出して、丁稚は無罪、権八には入牢を申し渡しました。
すっかり悪運の尽きた権八を待っていたものはこれだけではありませんでした。
牢の扉が開かれ中に押し込められ、最初に目に飛び込んできたものを見て権八は驚愕の声をあげました。それは権八の身代わりに牢につながれていた請人(身元保証人)の3年に及ぶ牢生活で変わり果てた顔でした。相手もすぐさま権八に気づき大きな声で牢役人を呼んだ。
「ここにいるのは、主殺しの権八でございます!」........。
その後すぐさま、権八は主殺しの罪名で極刑に処されたといいます。