2012年12月5日水曜日

有馬家化け猫騒動

今回は麻布のお隣、三田一丁目のお話しです。

江戸期の久留米藩上屋敷
三田小山町辺から国際医療福祉大学三田病院(旧専売病院)、済生会中央病院、三田国際ビル、都立三田高校のあたりは、明治維新まで久留米藩有馬家二十一万石の上屋敷でした。


★水天宮

この屋敷には名物が四つあり、一つは、

どうでありま(有馬)の水天宮

と言う軽口があったくらい有名な水天宮です。

明治以降は現在の日本橋蠣殻町に移転しましたが、これは維新後有馬邸が青山経由で蛎殻町に移転したためで、江戸時代の水天宮は赤羽橋の久留米藩上屋敷内北西角(中の橋側)にありました。

祭神を尼御前大明神と言い壇ノ浦の合戦で敗れた平家と共に入水した安徳天皇、建礼門院、二位の尼の霊を女官按察使(あぜち)の局が九州久留米地方まで落ち延びて祭りました。そして関ヶ原の戦いの戦功で領主となった有馬氏から庇護を受け文化五(1808)年、十代藩主頼徳のころに江戸藩邸に分霊を祭りました。これは当時虎ノ門にあった金毘羅宮の成功を模倣したといわれ、月に一度のご開帳では藩邸内に入りお参りが出来ましたが、その他の日にも赤羽橋から中の橋まで行列が出来るほどの大勢の参拝者が訪れ、藩邸の塀ごしにお賽銭を投げ入れる「投げ銭」を行ったといわれ、お札や供え物などによる収入は莫大で、とても貴重な大名の副収入になったそうです。余談ですが、こののち同じようなこと(邸内社信仰)が麻布でも起こり「がま池信仰」となりますが、明治期には、このがま池のお札である「上の字」さまを配布していた清水家では、子息の英国留学をこの売り上げだけで賄ったといわれています。

安藤広重
東都名所芝赤羽橋之図

★火の見やぐら

2つめは、「火の見やぐら」。
これは八代藩主の時幕命により大名火消を命ぜられ、三田台地に高さ三丈の火の見櫓を組みました。また、別説によると、四代将軍家綱の時代に三代久留米藩主頼利が芝増上寺の「火の御番」を命ぜられて以来、十一代藩主頼咸の時代[文久年間(1860年代)]まで代々その職に任じられたそうです。
ちなみに、もうひとつの将軍廟所である上野寛永寺の火の御番は加賀藩前田家に命ぜられていました。
他家の火の見やぐらは二丈五尺(約7.5m)以内、江戸城の方角には目隠しをすることなどが決められていましたが、久留米藩の火の見やぐらは特別に三丈(約9m)とすることが許され、さらに設置されていたのが三田段丘途中という標高(約22m)も加味されていたために日本一と称され、当然江戸で最も高いものでした。

 

 

 

歌川広重
「名所江戸百景」
第49景
増上寺塔赤羽



そしてそれにより、

「湯も水も火の見も有馬名が高し」

「火の見より今は名高き尼御前」

などと詠まれました。

右の歌川広重「名所江戸百景」第49景『増上寺塔赤羽』は増上寺五重塔(戦災で消失)の後ろから見た赤羽橋・有馬家上屋敷・有馬家火の見櫓・水天宮(中央付近の赤い幟[のぼり])が描かれていますが、当時は絵画のタイトルに武家の名前をつけることはご法度でした。






赤羽橋や増上寺を描いている当時の絵には必ずこの火の見やぐらが描かれており、当時江戸のランドマークの一つであったことが推測されます。
そして約150年後には、やはり日本一になる東京タワ-がすぐ近くに建設されることとなるのは不思議な縁ですね。






明治初期解体中の
久留米藩火の見やぐら







★曳き犬

3つめは、「曳き犬」。
六代藩主則維(のりふさ)は時の将軍綱吉(犬公方)から小犬を拝領し、それ以来藩主の行列には拝領犬を曳きつれ市民から「有馬の曳き犬」と称されました。
後の水天宮の犬帯は、犬で有名な有馬の水天宮で犬にあやかって安産、多子を祈願して売られたため、もし「有馬の曳き犬」が無かったら、水天宮の犬帯も存在しなかったと思われます。

★有馬家化け猫騒動

4つめは本題の化け猫騒動。
芝居の「化け猫」で有名なのは、岡崎、佐賀鍋島と、この有馬家です。
この中でもっとも早く劇化されたのは岡崎の猫騒動。これは鶴屋南北の作で「独道中五十三次」といい文政10年市村座で初演されているようです。

赤羽小学校敷地内の猫塚
次が佐賀鍋島で瀬川如齏皐の「花嵯峨猫又双子」。初演は嘉永6年中村座ですが、鍋島家よりの苦情で町奉行が芝居を中止させたと伝わります。しかし話は講談に受け継がれ「佐賀の夜嵐」、「佐賀怪猫伝」となりました。そして佐賀の化け猫は太平洋戦争中、米軍が飛行機で東京に撒いたの宣伝ビラにも利用されました。

最後が有馬家の化猫騒動。これは河竹阿弥の「有馬染相撲浴衣」で、初演は江戸期ではなく維新後の明治13年猿若座と新しく、その筋は藩主有馬頼貴が寵愛した側室「お巻の方」が他の側室の嫉妬で冤罪を被せられそれを苦に自害してしまう。すると「お巻の方」の飼い猫が主人の仇を報いようと奥女中のお仲に乗り移り側室たちを食い殺して火の見櫓にいるのを、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が退治する。
と言う筋書きでした。これ以前に風聞として、明和九(1772)年、大田南畝の「半日閑話」に有馬公の家臣、物頭の安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったとあり、同じ頃の随筆「黒甜鎖語」にも有馬家では夜な夜な怪異があったが、番犬を置くとおさまるとあり、また怪異とは狐のたたりであると岸根肥前守(寛政10年の町奉行)「耳袋」にもあります。

これは、

松平丹波守の家伝の秘薬に「手ひかず」という塗り薬がありその製法を有馬の殿様が所望し遂に処方を伝授された。それは生きた狐を煮込み煎じ詰めると言う製法で、多くの狐が殺された。そのため怨んだ狐が怪をなしたが、番犬により怪が止んだ。

とあります。

「半日閑話」の安倍群兵衛とは誤記で犬上群兵衛であるとも言われ、犬上群兵衛は久留米藩の柔術師範であり麻布狸穴に道場を開いていて、実在した人物です。しかし、晩年粗暴のため閉門中に死去し犬上家は取り潰されてしまいます。
しかし、後日血縁の者が犬上郡次郎を名乗り、先代の怪猫退治をまことしやかに言い立て館林藩に仕官してしまいました。そして八丁堀に道場まで開くこととなりますが、やはり身持ちが悪く、文久二(1862)年上州の博徒、竹居の安五郎の子分に惨殺されてしまいます。
このようにだいぶ芝居の下地となる風聞がそろってきましたが、最後に決定的な事件(事故?)がおこります。

「街談文々集要」文化元年甲7月28日の条に神田にある、

久留米藩火の見櫓を模して
作成された中の橋の欄干

松平讃岐守の上屋敷で火の見櫓の番人が櫓より落ちて死亡した。死体を改めると何かに引っかかれたような傷が無数にあり、腹部も破れてひどい有り様だったので世間では天狗か物の怪の仕業だとうわさした。またこの屋敷の近くにある旗本大森家の飼い猫が変化して人を脅かすので、松平讃岐守邸の事件もこの猫の仕業だと言う評判が立った。

こうなると風聞が伝わるうちに、怪猫、火の見櫓、大名屋敷という部分が強調され有馬家と結びつくのに、それほど時間はかからなかったと思われます。ちなみに松平讃岐守邸の事件の真相は、邸の者によると、火の見櫓の端に腰掛けていた番人が誤って転落し高所からひさしなどに当たりながら落ちたので、惨状になった。物の怪とはまったく関係ないとの事です。

これらの化け猫話は、松平を除く有馬、鍋島共に九州の大名で、両家の因縁は深いようです。
鍋島家は主家の龍造寺家を乗っ取る時の恨み、また有馬家は藩主有馬晴信が死罪になって以降のキリシタン信者への弾圧など、両家に遺恨を持つものからの風聞だとしてもおかしくはないと思われます。この項の写真は元有馬家上屋敷(現港区立赤羽小学校)に台座が現存する「猫塚」は、おそらく明治期に建てられたものであろうと想像でき、その上部は現在も恵比寿にある防衛省防衛研究所敷地内前庭に現存します。


明治になるとこの藩邸の跡地は明治4(1871)年工部省所管赤羽製作所~海軍造兵廠となりますが、海軍造兵廠が現在の築地市場に移転したのちには空き地となり、「ありまっぱら」と呼ばれ、格好の遊び場となったようです。また同様に三田通りで対面した薩摩藩芝藩邸跡地は「さつまっぱら」と呼ばれていたそうです。


F.ベアトが幕末に撮影した
久留米藩邸・中の橋

最後に江戸時代水天宮の川柳を紹介します。


◆ 赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波

◆ 商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の 風車うり

◆ 人はみな 尋ねくるめの上屋敷  水天宮に 賽銭の波

◆ 湯も水も 火の見も有馬 名がたかし

◆ 火の見より  今は名高き  尼御前



次回は大正期慶応義塾の教授であった永井荷風がこの猫塚を見に行く過程
「猫塚-荷風の見た猫塚 」をお伝え致します。









より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示