岡本綺堂住居跡辺 |
~くもりと細雨のなか、9時頃から馬車で荷物の積み出し、綺堂、細君、おふみさんらは電車を乗り継いで、宮村十番地の借家へ(港区元麻布3丁目9番地)。正午に荷馬車到着。光隆寺という赤い門の寺の筋向いで、庭は高い崖に面している。~
と、日記に記しています。
綺堂は後に、宮村町での生活を「綺堂むかし語り」という随筆の中の「十番雑記」「風呂を買うまで」などで語っていて借家の様子を、
~家は日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。~裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。~元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。~
暗闇坂 |
~十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る~ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。~としています。また、近所の坂を詠んでいます。
狸坂くらやみ坂や秋の暮
~わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。~
狸坂 |
そして、風呂好きであった綺堂は近くの越の湯、日の出湯などに通っており、冬至のゆず湯の風景が描写されています。
宿無しも今日はゆず湯の男哉
そして大正13年の正月を迎えた綺堂は、1月15日にあった「かなり大きな余震」により9月1日の大震災ですでに傷んでいた宮村町の借家がより大きく傷んでしまったので、家主の建て直しの意向もあって引越しを決意せざるをえなくなり、その年の3月19日に大久保百人町へと再び転居します。綺堂は1923年(大正12年)10月12日から翌年3月19日までの仮寓ともいえるわずか5ヶ月間の麻布住いとなりましたが、随筆や日記には、当時の麻布界隈の様子が生き生きと描かれている貴重な資料となっています。
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