内田坂下の朝日湯跡 |
腰の湯は黒いお湯なので、潜水艦のおもちゃを沈めるとどこに行ったかわらなくなり、足で探すこととなります。また、シャンプ-の空き容器にお湯を入れて、女湯に飛ばすと悲鳴が聞こえました。(ただしこの遊びは、番台に恐い主人ではなく、おかみさんなどの場合のみ行われました。)また、湯から上がるとロッカ-の鍵隠しをして遊んだりもしました。
こうして1~2時間遊んで、帰りはおもちゃ屋兼駄菓子屋のしみずでプラモデルの下見をしながら腰に手を当ててラムネかチェリオを飲み干す。こんな話を先日宮村町のタバコ店渡辺さんにお邪魔して話していると昔宮村町にも「日の出湯」という銭湯があり、遊びに行くとよく湯に入れてもらったとご主人に伺いました(1998年頃)。
調べると、近代沿革図集麻布、六本木編昭和8年の地図に今の元麻布3-6-20あたりに日の出湯が載っています。また「十番わがふるさと」によると、現在の六本木ヒルズ敷地である日ヶ窪の栴檀林(現駒澤大学)寮舎の生徒(お坊さんの見習)が、その当時内田坂下の宮下町にあった朝日湯で衣装を代えて町方に遊びに行き、寮に帰る時また来て法衣に着替えたといわれています。
1883(明治16)年の周辺地図 |
とあります。
そして、この見習いのお坊さんたちは、湯には入る事以外の目的である更衣室的な利用をしたため、地元の人からこの朝日湯は、「坊主湯」と呼ばれていたそうです。
また宮村町大隅坂下にあった「日の出湯」は、作家岡本綺堂のお気に入りで、「綺堂むかし語り」という随筆では、関東大震災震災直後に約半年間住んだ宮村町の風呂屋について、
わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越の湯と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
1933(昭和8)年の周辺地図 |
宿無しも今日はゆず湯の男哉
と記しています。また岡本綺堂日記にも、
10月12日
柳田と私は十番の湯へゆく。湯屋は越の湯といって、なかく大きい。湯から帰って、額田中嶋柳田等でビール、サイダー、洋食をくひ、額田と中嶋は一足先に帰り、柳田は八時半ごろに帰る。それから十番の通りへ出で、再び買物をする。武蔵屋で原稿紙を買った。
10月15日
竹下君に礼状をかく。それを投函ながら自宅から西の方へ行ってみる。そこにも日の出湯という綺麗な湯屋がある。
10月21日
四時ごろ入浴。このごろは越の湯をやめて日の出湯へゆく。近くて綺麗だからである。岡(鬼太郎)君も広尾からここの湯まで入浴に来るのだといふ。
などと記しています。
その他に近代沿革図集昭和8年の地図に麻布界隈では、
鶴の湯(一本松町)、東湯(北新門前町)、花湯(森元町)、和倉温泉(飯倉)、野沢湯(飯倉)、天満湯(飯倉)、一の橋浴場(一の橋)、大正湯(市兵衛町)、人参湯(今井町)、桜湯(桜田町)、日の出湯(龍土町)、朝日湯(霞町)、みどり湯(三軒家町)東湯(東町)、亀の湯(新広尾町)、竹の湯(竹谷町)、朝日湯(広尾町)、金春湯(田島町)
などが見えますが、これは麻布という土地が湧水などに恵まれ水の便がよかったことの証であると思われます。
※ 現在、麻布域の銭湯は麻布竹谷町にある黒美湯温泉 竹の湯さんだけが唯一営業を続けています。
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