江戸名所図会-笄橋 |
源氏と麻布のかかわりが初めて登場するのは、平将門の乱(承平天慶の乱)にちなんだ伝説です。源経基を六孫・六孫王などと唱えることがありますが、これは清和天皇の第六皇子の子ども、つまり孫なので、六孫王と言う意味だそうです。
天慶二(939)年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守(国司クラスの地方行政長官)の興世王と介(副長官)の源経基が、前例のない赴任早々の税の取り立てをめぐって以前からの足立郡の郡司(郡を治める地方官)武蔵武芝と紛争となってしまいます。そこでこれまで親族闘争や近隣との紛争により関東地方に権力を持っていた平将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を和解させましたが、祝宴の際に武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲したと思い込み、驚いた経基は京へ逃げ出してしまいます。そして京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えました。これが平将門の乱(承平天慶の乱)の始まりでした。この京へ逃げ帰る道中で、経基は麻布の笄橋通り一本松で宿泊することとなります。
★笄橋伝説
この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れでしたので、この橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽りました。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができました。これにより以後この橋を経基橋と呼んだそうです。そして後に源頼義が先祖の名であるためにはばかり「笄橋」と改称させました。
金王八幡神社に伝わる 笄伝説の笄 |
その様子を江戸期の書籍「続江戸砂子」は、
★一本松伝説
天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也
としています。
しかし渋谷八幡(金王八幡神社)は寛治六(1092)年、渋谷山 東福寺は承安三(1173)年の創建と伝わっており年代が合いません。 (しかし東福寺には経基との因縁を示すものとして、経基が笄橋通過時に川の関守に与えた笄が残されています。 ) また、本村町薬園坂には江戸期まで七仏薬師を安置する東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)、またの名を源経基との縁から六孫王寺とも呼ばれる寺があり、この七仏薬師は源経基の念持仏と伝わっていたので、あるいは渋谷云々は「続江戸砂子」の誤記であるのかもしれません。
麻布一本松 |
そして、あくまでも根拠のない全くの推測ですが、これを麻布氷川神社の創建と仮定すると、ほぼ年代的には無理がないように思えます。また一本松は氷川神社のご神木であったとの説もあるので、精舎→麻布氷川神社と考えても場所的にも時代的にもあまり無理がないように思えます。
鳥居坂~暗闇坂~現在の麻布氷川神社~本村町薬園坂は古道(麻布区史には古奥州道とあります)といわれているので経基はこの道を通過したものかとも思われますが、根拠はありません。また敵対した武蔵武芝については諸説ありますが、現在も芝・聖坂の上にある済海寺は竹芝寺の跡といわれ、その当時は武蔵武芝の居館の一つであったとの竹芝伝説もあるので、北関東に拠点を置く平将門の乱の当事者たちと麻布近辺の不思議な縁が、しのばれます。
そして、武蔵武芝は氷川神社を祀る武蔵国造家を勤めたといわれており氷川神社との因縁も深いものと思われます。
芝・聖坂の下を麻布御殿の造営に伴う古川改修工事で現在の川筋が造られるまで、三の橋から分岐した古川が流れ薩摩藩邸重箱堀となって最後に江戸湾に流れ出ていました。この川は改修工事が行われるまでは古川の本流だったとの記述もあり、この川は「入間川(いりあいがわ)」と呼ばれていました。ご存じのように「入間川(いるまがわ)」と呼ばれる川が現在も北関東に流れており、将門の乱の当事者たちの本拠地である鴻巣、浦和などのすぐ近辺でした。
一本松由来碑 |
この他にも、三田綱坂に名を残す渡辺綱は通称で、正式名称は源綱で清和天皇を祖とします。また後年渡摂津国渡辺庄に住んだことから渡辺氏の祖ともいわれています。そして綱は、桓武天皇の皇子嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の一族で、名前が代々漢字一文字であるため一字源氏といわれています。この綱の先祖には源氏物語の光源氏の実在モデルといわれる源 融(みなもと の とおる)がおり、おそらくそうとうな美男子であったと想像します。この綱が芝・綱町の由来となっており、綱坂、産湯の井戸、綱の手引き坂などにも名を留めています。江戸期の川柳には、
氏神は 八幡と 綱申し上げ
三田綱坂 |
また、さらに源経基の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令により「鬼丸の剣」でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時[長元1(1028)年]坂東の兵を集めたのが赤羽橋の土器坂付近で「勝手ヶ原」とよばれた地域であったといわれています。 そして、金王八幡神社とのつながりのある金王丸(渋谷氏)と白金長者(柳下氏?)の娘の恋は笄橋伝説の別説となっており、
★笄橋伝説の別説
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。
三田綱の手引坂 |
綱産湯の井戸 |
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