渋谷山東福寺 |
○一本松と、源経基が一本松の付近にあった民家に宿泊し、後日その民家は精舎となり渋谷・金王八幡神社の別当寺で同社と同じ敷地にある渋谷山東福寺となった事が記されています。(便宜上、渋谷東福寺と呼ぶこととします。)
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。~略~
渋谷山東福寺は金王八幡宮の敷地に宮と共に創建された(住職の話では80年ほどの差があるようですが)渋谷区最古の寺院といわれ、創健者の
この渋谷重国は頼朝の父である源義朝の忠臣であり。これは渋谷重家の嫡男がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされています。 笄橋伝説に登場する白金長者の息子「銀王丸」と恋に落ちた渋谷(金王)長者の姫の伝説も残されているが、金王八幡神社には源経基が笄橋に設けられた関所を通過する際に敵を信用させるために使用したとされる「笄」が社宝として残されています。
この笄について江戸砂子には、
○
笄橋伝説の笄 |
としており、「笄」が別当の東福寺にあったことが記されているので寺に問い合わせました。すると、明治初期の廃仏毀釈により寺宝は現在隣接する金王八幡社に移管し保存されているとのことなので、早速連絡をすると宝物殿に現存していることが判明しました。
○東福寺誌6p
~略~「金王八幡社記」によると、寛治6(1092)年、源義家が後三年の役の凱旋の途中にこの地に赴き、領主・河崎基家が秩父妙見山に拝持する日月二流の御旗のうち、月の御旗を請い求めて八幡宮を勧請した。そのおり、天慶2(939)年の将門の乱のときに源経基が宿泊したという家を改めて一寺となし、親王院と称して別当寺とした。これが東福寺の起立である。~略~
○金王八幡社・社宝
・河崎基家が金王八幡社創建時に勧請した月の御旗(複製)
・源経基の笄
・鎌倉・鶴岡八幡宮の宮御輿
・金王桜
・徳川家光・春日局が寄進した本殿
・三葉葵のついた用途不明の木戸
・渋谷城址石垣の石
渋谷氏 ◇ 河崎基家 → 源義家に隷属 武蔵国豊島郡谷盛庄に居城渋谷城を構築 | ◇ 渋谷重家 → 源義家に隷属 金王八幡を勧請・渋谷氏を名乗る | ◇ 渋谷重国 → 源義朝・頼朝の家臣 金王丸=土佐坊昌俊 | ◇ 渋谷高重 → 源頼朝の家臣 重国の長男 ◇ 渋谷光重 → 源頼朝の家臣 重国の次男、長男以外の息子が北薩摩に定住し薩摩渋谷氏となる
○渋谷重国=金王丸=土佐坊昌俊・説
寺の由来が記された 渋谷山東福寺梵鐘 |
源義朝が平治の乱で平清盛に敗れた後、義朝の家臣であった金王丸は京都に上り義朝の愛妾であり牛若丸(源義経)の母でもあった常盤御前に事の由を報告した後、渋谷に帰って出家し土佐坊昌俊と名乗って義朝の霊を弔ったとされています。
この伝説からか金王八幡社の近くには、常磐御前が植えたとされる松が由来の一つとされる「常磐松」の地名が残されています。
そして後年、渋谷重国は源頼朝の隆盛により再び頼朝の家臣となります。この時期に頼朝の命により、櫻田郷・霞ヶ関辺に櫻田神社を創建しているので、おそらく霞ヶ関あたりも渋谷氏の勢力圏内であったと想像されます。
後年の江戸砂子には渋谷の旧地名で渋谷氏の勢力が及んだと考えられる地域である谷盛庄を、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井として「谷盛七郷」としています。そして上・中・下渋谷三ヶ村と上・中・下豊沢三ヶ村に隠田を加えた七ヶ村を渋谷郷としています。 櫻田神社創建に関与した渋谷重国はその後、頼朝により義経追討を命じられ京都にて義経軍との戦いに敗れた後に馘首され生涯を閉じたと伝わります。(別説には馘首されたのは影武者でその後天寿を全うしたとの説もあります。)これらの功績を惜しんだ頼朝は、鎌倉亀ヶ谷の館に咲く桜木を渋谷重国の本拠地金王八幡に移植し「金王桜」としたとされ、その桜は社境内に現存します。
金王丸以降も渋谷氏は存続し、この辺りを統治したと思われるが、大永四(1524)年北条氏綱の関東攻略の際、江戸城の
また、渋谷重国の子、渋谷光重は宝治元年の合戦の恩賞として北薩摩を拝領し長男以外の子らが薩摩に渡って土着し、薩摩渋谷氏の祖となります。
金王八幡神社 |
余談ですが、明治期のもう一人の元勲、乃木希典の乃木家は長府毛利家の家臣でしたが、幕末には櫻田神社に度々参拝したといわれています。乃木家は宇多源氏系の佐々木氏を祖に持つと云われており、佐々木秀義は平治の乱で源義朝に服属して敗北し、追捕命令が下り奥州へと落ちのびる途中で渋谷重国が二十年にわたり庇護し秀義を婿に迎えて縁戚をも結んでいます。この秀義の子である佐々木四郎高綱が乃木家の祖と伝えられるので渋谷氏と乃木氏は縁戚関係にあったことになり、これにより恩人であり縁戚関係もあった渋谷重国が創建に関与した櫻田神社を崇敬したことが想像され、櫻田神社の由緒によると乃木希典が初参りで櫻田神社を参詣したおりに着用した産着が戦前まで社に保存されていたという逸話が残されています。(後に櫻田神社により乃木神社に奉納され現在も乃木神社の社宝となっているが非公開とのことです。)
またこの渋谷東福寺とは別に、江戸期には本村町薬園坂にも「七仏薬師」で有名で、やはり東福寺の寺号を持つ寺院が存在しました。(こちらを便宜上、薬園坂東福寺と呼ぶ)
◎薬園坂東福寺(医王山薬師院 東福寺)-港区南麻布3丁目
薬園坂七仏薬師東福寺跡 |
弘仁年間(810~824年)に伝教大師が上野・下野下向の折に弟子の慈覚大師が下野国大慈寺に安置し、その後天慶年中(938~956年)に源経基が守護仏として護持、その後に源頼義が守護仏として鎌倉に移し代々の管領の崇敬を受けた後に長禄年間(1457~1460年)太田道灌により川越に移設、そして江戸城平川に移転。徳川家康移転時には江戸城中に安置されていたものを慶長9(1604)年神田駿河台に移転し堂宇・常院を建立、元和3(1617)年上野広小路に移転、そして天和3(1683)年上野広小路より本村町薬園坂に移転しました。
しかし、江戸期を薬園坂ですごした東福寺も明治初期には廃仏毀釈の影響を受け廃寺となり、本堂は隣接する明称寺に売却され、七仏薬師像と十二神将像は品川区西五反田の安養院に移設されることとなります。そして残念な事に、昭和20年戦災により像は焼失した。また、明称寺に売却された薬草が天井一面に描かれた本堂は、明称寺の現在の本堂となって現存しているが拝観は出来ないようです。
六孫王経基の念持仏とされる本尊の七仏薬師は、
★七仏薬師(伝・伝教大師作)
の七像とされ、「府内誌残編」によると、1.美稱名吉祥如来
2.寳月智厳院自在王如来
3.金色寳光妙行成就如来
4.旡憂最勝吉祥如来
5.法海雷音如来
6.法海惠遊戯神通如来
7.薬師瑠璃光如来
江戸末期の 薬園坂東福寺 |
と記しています。~略~寺伝ニ本尊薬師ハ往古伝教大師比叡山ニ於テ手刻セシ七台ノ一ニシテ、比叡山中堂ニ安置セル薬師ト同木ノ像ナリ。~略~
★<その他の寺宝>
これで、江戸期には同じ宗派でどちらも源経基に深い縁を持つ同名の寺が麻布と渋谷に存在したことが判明しました。
・徳川秀忠が家光生誕を記念して家光の名で寄進した十二神将像
慶長1十(1605)年乙巳卯月吉日・日光菩薩像・月光菩薩像
源右大将若君(家光) 御寄進
と像の背面に銘があったという。
この二つの東福寺を比較して見ると、
仮 称 | 山 号 | 寺 名 | 宗 旨 | 創 建 | 創建地 | 庇 護 | 経基との関わり | 備考 | 所在地 | 現 存 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
渋谷 東福寺 | 渋谷山 | 親王院 東福寺 | 天台宗 | 永承~治歴 (1046~1068)年間 | 金王八幡 境内 | 河崎基家 源義家など | 一本松宿舎 を後に寺とする 源経基の笄が保存 | 谷盛庄渋谷郷(現在地)に 金王八幡宮別当寺として建立 渋谷区最古の寺院 | 渋谷区 渋谷 3-5-8 | 元地に現存 |
薬園坂 東福寺 | 医王山 | 薬師院 東福寺 | 天台宗 | 慶長9(1604)年? | 神田 駿河台? | 源経基 太田道灌など | 七仏薬師像が 経基の念持仏 | 七仏薬師・天和3(1683)年 上野広小路より本村町に移転 | 港区 南麻布 3丁目 | 明治初期 廃絶 |
・宗派・寺号が同じ
・どちらも源経基の関わりを持っている。
・どちらも江戸初期に徳川家光・春日局との関わりを持っている。
江戸名所図会 七仏薬師・氷川明神 |
また笄橋伝説で源経基は渋谷側から麻布側に橋を渡ったのならば一本松での宿泊が想像され、その後暗闇坂から現在の麻布氷川神社、本村町薬園坂を抜ける古道(奥州街道といわれています)を通って西へ落ち延びたことが推測できますが、麻布側から渋谷側に笄橋を渡ったのだと仮定すると渋谷山東福寺での宿泊後に古道(のちの鎌倉街道
しかし東福寺・金王八幡神社の周囲には、渋谷重国の時代に同じ渋谷城内であったと想像され、現在も広大な社領を有して江戸初期までの麻布氷川神社を彷彿とさせる渋谷氷川神社も鎌倉期には源頼朝の庇護を受けたとされ、金王丸信仰の社であり、境内では金王相撲と呼ばれた相撲がもようされていたとあります。
さらにこの渋谷氷川神社に隣接する社の別当・宝泉寺も渋谷重本の開基といわれています。
薬園坂東福寺敷地見取図 |
いづれにせよ麻布氷川神社を始め、多くの源氏伝説が残された麻布周辺ですが、 残念ながらその真実を伝えるものは、何も残されていません。