祥雲山龍澤寺
港区元麻布3-10-5
麻布区役所跡・近代地方自治発祥解説板
宮村町の子供たちが南山小学校、城南中学(現六本木中学)へ通学する時に通った道の途中にあるお寺です。
祥雲山龍澤寺は寛永3(1626)年2月15日飯倉片町に開山白容伝清和尚が太田原備前守の協力で建立されました。その後明暦の大火で焼失したので寛文元(1662)年、麻布宮村町に移ることとなります。
祥雲山龍澤寺
余談ですが、宮村町にはこの龍澤寺の他に安全寺・広称寺・光隆寺、やや離れて本光寺などのお寺が連なっていますが、これらの中で龍澤寺以外の寺院は1678(延宝6)年狸穴・飯倉片町辺に甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地が建設されることになり、幕府の指示により同時に宮村町に移転を命じられ移されてきたそうです。
この移転当時の宮村は江戸とはいっても町奉行支配の「町」ではなく、代官支配地である「村」でした。そして正式な名称は「武州豊島郡麻布宮村」とされていました。この宮村をはじめ多くの麻布の村が町奉行支配の「町」となり、江戸市中に数えられるようになるのは、正徳年間(1711~1715年)頃となります。
ちなみに「村」であった当時の名称をそのまま町域になっても引き継いだのは、この宮村町と本村町があり、どちらも麻布の中心地であったと考えられています。しかし、残念なことに由緒あるこれらの町名も現在は町会の名称として残されているだけす。
その後、時代は移り明治になると、この寺に麻布区の初代区役所が置かれました。寺地内にある港区教育委員会の碑によると、
「麻布区役所跡、近代地方自治発祥。江戸が東京と改称されてからその行政区画の変遷は繁雑を極めた。明治11年7月23日、郡・区・町・村の編成法が発布された。同年11月2日には芝、麻布、赤坂などの15区と荏原などの6郷が置かれて町・村・区会を開設することになった。地方自治史上画期的なことであった。これによって明治6年(1873年)12月以来竜沢寺の堂宇を借りて設置された第二大区十二小区の区役所は明治11年4月から麻布区役所として開庁し、初代区長には前田利充が任命された。なお、芝区、麻布区、赤坂区は昭和23年3月15日統合され港区になった。」
祥雲山龍澤寺
境内と解説版
とあります。
祥雲山龍澤寺は、680坪の境内を有し曹洞宗本山永平寺に属した禅宗でした。そして旅僧奇端の石地蔵尊が安置してあったそうです。
この地蔵の由来は、
江戸末期の祥雲山龍澤寺
江戸時代に一人の旅僧が来て、門前で子供たちに仏号を教え唱えて共に遊んだそうです。しばらくしてその子供たちが仏の教えを喜び、石像を造り安置供養しました。旅僧は再び訪れることはありませんでしたが、人々は旅僧が地蔵尊の化身だったとして、子供の諸病にお参りしたと伝わるお地蔵さま。
といわれています。
また、戦前の1936(昭和11)年に寺の建て替えを行った時、屋根の瓦の下から大きな「青大将」が出てきました。この蛇を鳶や大工もも恐ろしがって仕事が手に付かなかったそうです。そこで、近所の「蛇屋」に頼んだのですが断られ、上野にまで足を伸ばして「蛇の黒焼き屋」にも頼みましたがやはり断られてしまいます。
途方に暮れていると、やっと芝の蛇屋が引き受けてくれて、翌朝8時に来ることになりました。しかし翌朝、時間になっても蛇屋は現れず、9時頃にやっと現れて、
「家内に相談したところ、お寺の主のような蛇を殺したら、必ず「祟り」があるのでやめてくれ、どうしてもというなら離婚する。と、猛反対されたので申し訳ないが勘弁してくれ。」
と断られてしまったそうです。
麻布区役所発祥の地解説版
話が振り出しに戻って困っていると、近所の蛇のとても好きな人が現われ、捕まえてくれることになったそうです。そしてその人が屋根瓦をはがしてみると、蛇がたくさんいて2匹ほどは逃げましたが、7匹を捕獲したそうです。 その後この人はこれらの蛇を蒲焼きで食べたと言われ、寺の蛇騒動は落着しました。
前出の石地蔵尊は戦争中、焼夷弾の直撃を受けて惜しくも消失してしまいました。そしてこれまで過去300年間の間、近隣の人々から雲を呼ぶから絶対に焼けないと信じられた龍澤寺も昭和20年5月25日の空襲で焼失してしまいます。その際、住職は不在であったそうですが、住職の妻が本尊と過去帳4冊を持って南山小学校に避難し、寺宝は戦災を免れ現在に至るそうです。
また、現在境内右手に安置されている六地蔵と呼ばれるお地蔵さまは、関東大震災の時に本所被服廠で犠牲となった人々の遺骨を埋葬安置して供養のため建立されたものとのことです。
境内の六地蔵
このお話の一部は「十番わがふるさと」に記載されていたものを、まとめました。
御府内寺社備考の龍澤寺 |
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