宮村町には以前ご紹介した大隅山に加えて、もう一つ山名で呼ばれる地域があります。
現在南山小学校、都立六本木高校のある山は、江戸時代には内田山と呼ばれていました。
内田山
これは、小見川(千葉県香取郡小見川町)藩主内田氏の上屋敷が万治元年(1658年)2月11日からあったためついた里俗の地名です。
内田氏は今川氏家臣から永禄11年(1568年)徳川氏に仕えた当初800石ほどの旗本でしたが、正信の代に相模で1000石の加増、さらに寛永16年11月、正信が将軍家光の御小姓組番頭となると、下野小見川8200石を加増され10000石となって大名に列せられます。
その後の慶安2年(1649年)にも正信は下野都賀・阿蘇で5000石を加増され15000石となって内田家歴代でも最も繁栄を極め、将軍家光の寵愛がいかに深かったかが伺われます。そして慶安4年(1651年)4月20日、家光が崩御すると正信は即刻帰宅し、幕府の重臣である堀田正盛、阿部重次と供に殉死しました。
その際、内田正信、阿部重次の家臣らも主君に続いて殉死したが、堀田正盛の家臣は主君の後を追う者が一人もいなかったといいます。日頃から規律の厳格な堀田家の家臣が殉死せず、逆に家臣の乱暴が度々評判となっていた内田、阿部両家の家臣は殉死したため、外見とは違い堀田家は家来の待遇が良くなかったのだろうと町の者の噂となりました。
その後の内田家は、享保9年(1724年)正偏の代に狂気のため心神喪失して妻女に斬りつけ蟄居減禄、また天保8年(1837年)正容の代にも不行跡で減禄となるなどしますが、その後幕末まで小見川藩を授かっていました。明治2年(1869年)内田正学は小見川県知事、子爵となり族院議員を勤めました。その後内田山は、それまで山全体が邸宅であったのを麻布十番方面から桜田町方面にぬける坂道が道路となったので、内田坂の名が生まれます。
文久2(1862)年の内田豊後守屋敷
明治33年12月31日の朝日新聞記事に、
「渡辺国武蔵相は、28日、伊藤首相の懇書に接し、早急に馬車で内田山の井上馨伯邸に駆けた。数刻にわたった井上伯と会談の後、そのまま首相が滞在している神奈川・大磯に赴いた。」
との記事があり、一般的にも内田山と呼ばれていたことがわかります。またこの 渡辺国武蔵相は当時のがま池保有者であり、この時渡辺蔵相は同じ宮村町内を馬車で移動した事が記されています。そして文中の井上馨の他に伯爵の芳川顕正も後に住まいを内田山に構える事となります。
★追記
四時佳興碑と解説版 六本木高校敷地の最西端に四時佳興 碑があります。これは内田豊後守屋敷の庭にあったもので宋代の哲学者「程顕」の詩の一説とのことです。
説明板
<四時佳興>
この碑はここ城南高校の地にあった内田豊後守の屋敷の庭
に置かれていたもので宋代の哲学者 程顕の詩の一説を刻
んだものです。
秋日偶成 程顥
閒来無事不従容 睡覚東窓日已紅
万物静観皆自得 四時佳興興人同
後畧
ゆったりと静かに眺めてみると万物は皆それぞれに
所を得ている。春の花秋の月と四季折々の移り変り
の面白さは、誰をも同じに楽しませてくれるという、
意味です。
四時佳興碑
解説版
江戸時代、この地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもの
で、この地を受け継いだ、南山小~麻布高等小~府立22中~都立城南
高校が、大切に保管して来ました。意味は碑の下に詳しい説明があり
ます。
また、この庭園の踏み石は、旧校舎南側にあった石垣のもので、府立
22中にちなんで22個配置されています。
城南高校の歴史
昭和17年2月 東京府立22中学校創立
〃18年7月 東京都立城南中学校と改称
〃19年4月 現在地に移転
〃23年3月 東京都立城南新制高等学校と改称
〃25年1月 東京都立城南高等学校と改称(男女共学)
〃63年2月 現校舎竣工
平成16年3月 東京都立城南高等学校56回卒業式
卒業生16,991名(男 9,180・女 7,811)
東京都立城南高等学校閉校
〃17年4月 東京都立六本木高校開校
平成18年 都立城南高校同窓会
社団法人 関西吟詩文化協会サイト解説
<秋日偶成 全文>
秋日偶成 程 明道 閑來無事不従容 睡覚東窓日已紅 萬物静観皆自得 四時佳興興人同 道通天地有形外 思入風雲變態中 富貴不淫貧賤樂 男兒到此是豪雄 <読み方>秋日偶成 程 明道 閑來事 として従容 ならざるは無 し睡 むり覺 むれば東窓 日已 に紅 なり萬物靜觀 すれば皆自得 四時 の佳興 は人 と同 じ道 は通 ず天地 有形 の外 思 いは入 る風雲 變態 の中 富貴 にして淫 せず貧賤 にして樂 しむ男児此 に到 らば是豪雄 <意味> (役職を離れて)ひまな生活になってからは何事もゆったりとして、 起きるのも朝日が東の窓に赤々とさしてからである。 あたりの物を静に見れば、皆ところを得てそこにあり、納得して おり、春夏秋冬の自然におりなすよい趣は人間と一体となり融けあ っている。 我らの信じる人の道は、天地間の無形の物にまで通じており、 (この正しい人の道が行われてほしいという)思いは(有形である) 風や雲や世相の移り変わりの中にまでは入りこんでいる。 さてお金があって身分が高くてもまどわされず道を外れることなく、 貧乏で身分が低くても人の道を楽しむ、(という言葉があるが)男子 たるものは修養を積み、このような境地にいたるならば、すなわち真 のすぐれた人物である。 <字解> 閑來 :(役職を離れて)ひまな生活になってから 従容 : ゆったりとしたさま 皆自得: それぞれに処を得て納得しているが 佳興 : よい趣 有形外: 形の無いもの 變態 : ここでは世相の移り変わりの定まらないさま 富貴 : 孟子に「富貴不能淫貧賤不能移」(富貴も淫すること能ず 貧賤も移すこと能ず)とあるに基づく 豪雄 : すぐれた人物
※秋日偶成全文・読み方・意味・字解は社団法人 関西吟詩文化協会様ご了解の上、ご好意により転載させて頂きました。
<程顥(明道)> 程顥(てい・こう、1032年‐1085年)は、中国北宋時代の儒学者。 字は伯淳、明道先生と称された。 朱子学・陽明学の源流の一人。
内田坂 ★内田坂
宮村町北部を西へ上る坂。明治以降に開かれた坂で、江戸時代にはこのあたり一帯が内田豊後守の広大な屋敷地となっていた。維新後は「内田山」と呼ばれた高台で、坂名もこれに因む。
★桜に包まれた街
内田山の井上邸 1894(明治27)年、井上馨の本邸が麻布鳥居坂(現在の国際文化会館敷地)から麻布宮村町内田山に移ってきます。そして時代は下って1922(大正11)年11月、井上馨の養子である井上勝之助は内田山本邸の庭4,000坪を売却することを決めました。これにより箱根土地会社が宅地化を始めます。そして、その敷地には井上馨がその権勢に任せて四〇数軒あまりの民家を移転させて開発した桜田町から麻布十番方面へと下る三間道路も含まれています。またこの敷地は井上馨が丹精した庭地で、池、温室もある花壇で四季の草花が咲き乱れたそうです。その中でも、松や杉とともに老桜が500株もあり、宅地化された後も都心とは思えない閑静な土地だったようです。この様子を大正11年11月22日付け朝日新聞は、
都の中に都離れした
櫻にに包まれた街
=を作るべく井上候が解放する
由緒ある 内田山の勝地四千坪。
と題した記事を掲載してその内容を紹介しています。
後年六本木ヒルズの開業とともに再整備された坂は「さくら坂」と命名されましたが、坂名はこの古事に因んでいるのかもしれませんね。
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