正式な名称を「有栖川宮記念公園」といい、これは明治期この場所にに有栖川宮邸があったことによる名称です。
有栖川記念公園
1896(明治29)年、麹町からこの南部藩邸跡地に移転した有栖川威仁親王ですが、親王には継嗣がなく、その後を高松宮家が引き継ぎます。そして威仁親王の二十周忌の命日の昭和9年1月5日、高松宮宣仁親王より有栖川邸跡地は東京市に下賜されました。その後同年2月には、早くも工事が始まり、11月17日に東京市の公園として開園式が行われました。
敷地の広さは10,988坪2合、総工費86,500円あまりで開園当初、敷地内に東京郷土資料仮陳列館も併設されていました。今は南麻布5丁目という住所ですが私の小さい頃には、このあたりは盛岡町という町名でした。これは公園の敷地が江戸期には南部盛岡藩20万石の下屋敷で、明治になると町屋ができて町域となったことに因みます。
盛岡藩はこの他、上屋敷を外桜田・中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下、三田寺町、木挽町、大崎等に、抱屋敷を大崎、上目黒に、蔵屋敷を芝田町、深川佐賀町に持っていました。上屋敷は江戸初期には幸橋にあり慶長17年(1612年)将軍秀忠も臨邸します。しかし、正保5年(1648年)に上地し、従来中屋敷であった外桜田に移ります。
寛永江戸全図の浅野邸
当初下屋敷も赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼びました。
そして正保2年(1645年)、芸州浅野家の分家で笠間藩(のち播州赤穂に転封)浅野内匠頭守麻布下屋敷と相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと移転します。
約50年後の元禄15年(1702年)大石内蔵助は赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ」をしますが、相対替がなければ、雪の別れは麻布になっていたかもしれません。
盛岡藩(維新時は白石藩と改称)最後の藩主甲斐守利恭は廃藩置県によりこの敷地を手放し、2,3の手を経て明治29年有栖川熾仁親王の邸宅になります。この間、明治4年(廃藩置県)から29年の事はわかりませんが明治初期麻布は、大名屋敷跡地でお茶、桑の栽培や酪農、放牧が奨励されていたらしい(桑茶令)ので、この土地でもお茶や桑の栽培がなされていました。(後年、これらの事業は失敗し撤退していますが、維新後膨大な数の大名屋敷が主を失い荒れ地となったので、行政側も苦慮したと伝わります。)
江戸末期の盛岡藩南部邸
自ら志願して東征大総督となった(許婚皇女和宮が公武合体政策により将軍家茂正室となった事による?)有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、江戸城に入ります。その後麻布に来るまで神田小川町(明治2年4月)、数寄屋橋(明治3年1月17日)、日比谷(同年12月3日)、芝(明治4年3月22日)、永田町(同年8月22日)、麹町区三年町5番地の隠邸跡などに屋敷を変遷し、1895(明治28)年参謀総長として日清戦争で赴任していた広島大本営で腸チフスのため薨去します。
明治29年、有栖川家は麻布盛岡町の屋敷に本邸を移しますが、この時すでに熾仁親王は逝去し、異母弟である威仁親王の代となっていました。そして跡取りの栽仁王は早世し、その後威仁親王も病により大正12年7月5日に逝去したので有栖川宮家は廃絶となります。しかし、大正天皇はそれを惜しみ第三皇子光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称高松宮を名乗らせて祭祁を継がせます。(高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母は、有栖川宮家でした。)
明治16年の盛岡藩邸跡
芋・茶などの畑となっていました。
現在の公園広場にある「熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部(現在の国会前庭洋式庭園)にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張のため有栖川公園の広場に台座ごと移されました。
この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置されます。 参謀本部は永田町有栖川宮本邸のすぐ前にあり熾仁親王像はその正面に設置されていましたが、これは熾仁親王が東征大総督であり、かつ初代参謀本部長、初代参謀総長を歴任した事から大日本帝国陸軍の祖として崇敬されていたためと思われます。
この像を製作したのは、ラグ-サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ-サに師事し、ロ-マ美術学校を1888年に卒業し、日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」などを作成した彫刻家の大熊氏広です。大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち現在の憲政記念館南側に計画された有栖川親王永田町邸の新築工事の設計に加わります。
この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持ちます。
有栖川親王永田町邸と参謀本部騎馬像
東京都の管轄だった有栖川公園も、昭和50年4月1日港区に移管されました。そして区立麻布テニスコ-ト、同麻布野球場を公園区域に編入し都立中央図書館施設を含めると総面積67,560㎡となり港区立の公園としては、最大の物となりました。
周辺には、愛育病院、麻布高校、ドイツ大使館、自治大学などがあり自治大学近辺は終戦まで海軍の監獄があったそうです。また公園に隣接するロ-ン・テニス・クラブは今上天皇陛下が結婚前に美智子妃殿下とテニスをして過ごされた場所です。
現在都立中央図書館となっている場所には、東京府養正館と呼ばれる建物ががありました。
これは東京府が今上天皇である明仁天皇が誕生したのを記念した皇太子誕生記念行事として1934(昭和9)年に35万円の資金で建てられました。その敷地は建設にあたって高松宮家から賜与されたもので、養正館の庭は高松宮により清風園と命名されました。建物は本館・講堂・静修室・寄宿舎からなり、青少年とその指導者養成に使用されました。1941(昭和16)年の地図にこの場所は「少国民道場」と記されており、麻布区史によれば、
熾仁親王騎馬銅像
青少年及び之指導に当る者に対し、国体観念を明微にし国民精神を作興せしむること
を目的とした施設となっていたようです。
そして戦後は日比谷図書館分室、都立教育研究所、日比谷図書館有栖川分室などを経て現在は都立中央図書館となっています。
熾仁親王騎馬銅像解説版
1975(昭和50)年、それまで東京都が管理していた公園は港区へ移管されました。私が小学生の頃、写生や、屋外授業でたびたび訪れ、また友達と釣りや虫捕りにもよく通ったが当時有栖川公園は都立公園で池での釣りは禁止されていました。そして頻繁に公園の管理員が巡回して、池で釣りをしている子供などは追い払われました。しかし管理員の姿が見えなくなると懲りずに、釣りをしていた私にとって思いで深い公園であり、当時の姿をほぼそのまま残している、麻布でも数少ない場所でもあります。
東京府養正館 |
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