2013年1月20日日曜日

飯倉の小川平八

江戸後期には北半球が小氷河期だった影響から天災、飢饉が日本全国を襲います。
大都市江戸も例外ではなく1773年(安永二年)には隅田川 までが氷結し、消費物資を水運に頼っていた江戸では物価が高騰して、正月の松飾も商いが行われないような状況になりました。
そして翌年も再び隅田川が氷結し、江戸城の堀も凍り付きましたが、しかしこれは天災の始まりでしかありませんでした。

1783年(天明3年)には浅間山が大噴火し、その火山灰や砂礫は江戸にまで到達しました。
噴火以降1787年(天明7年)まで東北地方は凶作になり、奥羽地方だけでも死者数十万人に及ぶ「天明の大飢饉」となりました。大噴火の前年1786年(天明6年)の夏に関東も大洪水に見舞われ、江戸でも神田川、隅田川が増水して新大橋、永代橋に被害を及ぼし堤防の決壊も呼びます。

この被害から消費物資が流入しなくなり江戸の諸物価が高騰し、翌年には米価が前年の5倍に跳ね上がり、たまりかねた町人達が5月20日赤坂の米屋襲撃を手始めに25日までの間、江戸市中の 米屋1000軒あまりで次々と略奪が行われます。いわゆる「天明の打ち壊し」の始まりでした。

打ち壊しの鎮圧後、幕府は打ち壊しに遭った商人達に救済金の給付と穀物の安価売却を進め、商業の復旧をはかりました。そしてその政策の中には、比較的裕福だった商人達も含まれました。そんな裕福な商人の一人に麻布飯倉の小川平八がいました。

小川平八は、柳橋のめくら平八、今戸の瓦師平八と共に三平八として世に知られた分限者で、物価が高騰した折、貧民救済のため飯倉、芝田町、高輪にまで救いの手を差し伸べました。平八は財産家であるばかりでなく、その蔵書も膨大な数に及んだそうで、将軍吉宗が古書を収集した際、専門家に見せても解らないほどの古い記録類を差し出したとあります。