2013年1月21日月曜日

水野十郎左衛門

水野十郎左衛門といえば、旗本奴の頭で幡髄院長兵衛の敵役と言った所でしょうが、実際彼が切腹したのは、長兵衛殺害から十数年もたってからだといわれているので、長兵衛殺害の喧嘩両成敗からのものではなく、素行不良の”とがめだて”からだと思われます。

戦国末期の荒くれ大名水野勝成を祖父に持つ十郎左衛門の最後はあざやかだったといいます。蜂須賀邸で切腹のおり、貞宗の短刀をおしいだたき、懐紙をといておもむろに腹に突き立て5寸ほど引いてから短刀を三宝に戻し、首を討てといったといいます。
十郎左衛門に正室はなく妾腹の男子が父と共に誅され、家は断絶しました。しかし、元禄元(1688)年7月に赦免され弟の忠丘が水野十郎左衛門を名乗り、小普請組になり家を再興しました。その際、兄の菩提を弔うため忠丘は三田の功運寺に墓を建て、以降水野家の菩提寺とします。

再興後拝領した屋敷は本所にありましたが、文化9(1812)年、麻布新町(現東麻布3丁目)に移ります。
この屋敷の一部は元、多聞(おかど)伝八郎の屋敷で、この人物は、元禄14年浅野匠頭が江戸城中で刃傷した直後、審問の上同情的な処分に努力し、また切腹にも立ち会った多聞伝八郎の子孫です。(ちなみに刃傷事件当時の多聞伝八郎の屋敷は麹町四番町との事です。)