大向山三光院専称寺 |
母親と二人の姉、幼い惣次郎だけになった沖田家は、翌年惣次郎と11歳違う長姉のミツに日野の井上林太郎と言う婿を迎えて沖田家を継がせました。その後、藩下屋敷を追い出された一家の足跡を残したものは一切なく、不明です。しかし林太郎の実家のある日野に住み、農耕などで生計をたてたものかもしれないと記述された本もあります。
その後9歳になった惣次郎は沖田家の「口減らし」のため、市ヶ谷の高良屋敷で試衛館という剣術道場を開く近藤周助の内弟子となります。
試衛館は天然理心流という流派を伝えていましたが、実質本位のそれは江戸市中では「いも剣法」と呼ばれ、試衛館も「いも道場」と呼ばれていました。
沖田総司墓所 |
そこで自然と近藤周助の方が多摩に出向き稽古をつけることが始まったそうです。このため多摩地域の豪農には物置や離れなどに道場を持つものが多かったと伝わります。
試衛館の内弟子となった惣次郎ですが、実質は下男並の扱いだったそうです。あまり好かれなかった近藤周助の妻から朝から晩までびっしりと家事、道場の掃除を言いつけられ、剣術の稽古もままなりません。
あまりの激務に9歳の惣次郎は幾度と無く涙をこぼし、姉家族の暖かさを思い出します。そんな惣次郎の心の支えになったのは、内弟子になって初めての剣術の稽古中に、
「この子供には、剣才があります。」
江戸期の阿部家下屋敷 と専称寺 |
そして明治維新の慶応四(1868)年、沖田総司は近藤勇の板橋での斬首を知らないまま、結核により千駄ヶ谷で死去したと伝わっています。そして享年には、24歳、25歳、27歳の諸説あり、辞世の句は、
「動かねば 闇にへだつや 花と水」
とされています。そして遺骸は沖田家の菩提寺であり、自身が生まれた白河藩下屋敷のすぐ目の前にある大向山三光院専称寺(港区元麻布3丁目1-37 )に葬られています。
※現在専称寺は墓所内へ入ることを禁じています。しかし、墓所脇の道路からも十分確認すること
が出来、また墓所沿いの壁には参拝のしかた等も記されていますので、これを遵守することを
参拝方法掲示板 |
★付記
妙光山真浄寺 |
○最後の新撰組隊士池田七三郎墓
嘉永2(1849)年11月上総山辺郡で商人の三男として生まれた稗田利八は16歳で江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学び、旗本の家臣となりました。その後18歳で「池田七三郎」という名前で新選組に入隊し、鳥羽伏見の戦いから会津まで参戦します。
猪苗代では隊長付けとして参戦したが敗戦。その後会津に残留中官軍に襲撃され戦死したと伝えられましたが、逃げ延びて銚子警備の高崎藩兵に投降し、東京に護送されました。
そして1年間の謹慎を経て放免となり、その後の人生を商人として過ごしました。そして時代は下って昭和4(1929)年、東京富ヶ谷(渋谷区)で子母沢寛の取材を受け回顧録「新選組聞書」を口述します。その後も1938(昭和13)年まで天寿を全うし、90歳で逝去しました。
稗田家・稗田利八墓所 |
稗田利八墓 |
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