五代将軍綱吉が世を治めていた元禄十年(1697年)十二月一日、将軍の慰安施設として麻布で白銀御殿が起工され、翌年十一年四月十四日に完成しました。わずか五ヶ月半の突貫工事で完成したこの御殿は、普請奉行を酒井彦太夫が勤めますが、実質的には豊後岡城主の中川因幡守久通が普請を任され、白銀御殿・麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれ、四の橋近辺の広大な敷地を有しました。
延宝年間図(1673~1681)に描かれた
麻布御殿の前身麻布薬園
その普請の様子を麻布区史は、
~中川因幡守久通、元禄十年冬麻布御殿造作御手伝ヒ承リケル。此の時上野根本中堂松平薩摩守綱貴ニ命ゼラレ、小石川御殿総堀以下御普請ヲバ松平淡路守承リ、各人足ヲ集ルニ、中川ワヅカ七萬五千石ニテ麻布御殿作リ出サンニ第一雇ニ難儀スベシト世人重ヒシニ、中川ニハ兼テ奉行役人に申付ラレシハ此度所々ニ御普請アレバ此方ノ場所ヘ人足ヲ集メルニ心得有ルベシ~
として、当時普請が其処此処で行われ人足の確保が難しかったことを伝えています。
また、この麻布御殿の普請に伴い三田用水から「白銀分水」を通水します。三田用水の開通はこの麻布御殿への通水を主目的としたという説もありますが、
・三田用水の開通は寛文四(1664)年
・麻布御殿の開設は元禄十一(1698)年
であることから年代的に無理があるように思われます。しかし、麻布御殿への通水のため分水を作り「白金分水」としたとすると無理がないように思えます。
この白金分水は目黒駅と恵比寿駅の中間にある三田用水の現在「日の丸自動車学校」となっているあたりから分水し、狸橋あたりで古川を掛樋または水道橋のようなもので超えて麻布御殿に通水していたものと考えられています。
この白金御殿と麻布御殿を別々にとらえているものもあるようですが、それは誤りで二つの御殿は同一のものです。
この御殿の造営に伴って、将軍が古川をさかのぼり直接船で御殿まで入れるように古川の川幅拡張・掘り下げの入船・改修工事も芝新堀から四の橋区間で行われ、大工事となりました。
この工事は貧民対策事業としての公共工事の側面ももっていたといわれていますが、この工事の工区の区画割りに伴って出来たのが「麻布十番」という里俗の地名であるといわれています。
この麻布十番という地名は長い間里俗の地名であり、住所ではありませんでした。しかし昭和38(1963)年十番1~3丁目が整備され、さらに昭和53(1978)年には住居表示が実施されて現在の麻布十番1~4丁目となります。
御殿の建った一帯は以前幕府の「御花畑」がありました。御花畑は江戸城二ノ丸、北ノ丸を経て寛永15(1638)年にこの地に移転して麻布薬園となり、幕府が薬草の栽培に乗り出します。当時ウコン、マニ、ダイオウなど73種類の薬草が栽培されていましたが、麻布御殿建設と共に小石川に移転し「小石川御薬園」となりました。そして現在も東京大学大学院理学系研究科附属小石川植物園として現存しています。
この御殿は将軍の保養施設として広大な土地を有し、御殿の前には「御鷹狩り場」もあったそうです。御殿に将軍綱吉が訪れたのは元禄11年3月、元禄14年3月30日ですが、この2度目の訪問の半月前の3月14日に浅野、吉良による殿中刃傷事件が起きており、事件で疲労困ぱいした綱吉が保養のため訪れたと考えられます。
麻布御殿及御花畑之図(麻布区史)
しかし、元禄15(1702)年二月十一日、四谷より発した火災によりこの大工事により造営された御殿もあっけなく焼失してしまいました。火事の後一部燃え残ったものは、芝増上寺御霊屋別当真乗院の伽藍となり現在も保存されているそうです。
明治になるとこの麻布(富士見)御殿があった場所の一部はその御殿跡の由緒に因んで麻布富士見町と命名され、現在もその名称は「南麻布富士見町会」として受け継がれています。
◎麻布 その西南部
◎文政町方書上
◇麻布御殿跡(南麻布三・四丁目)
広尾神社の社地あたりは、旧将軍の別墅で、麻布御殿跡といわれる。同社は昔、富士見稲荷 といい御殿の鎮守であった。「江戸砂子」に御殿旧地、元禄ごろ麻布御殿あり。今は武家屋敷、眺望すぐれたる故に富士見御殿とも申す、とある
◇麻布本村町
御殿の儀は本村町西の方にて阿左布
御花畠と唱え候うちにこれあり、御花畠の儀は、往古より御座候由年代相知れ申さず候。その後、白金御殿起立の儀は元禄年中仰せ出され、同十一寅年三月中御出来の旨に御座候。お掛かり若年寄秋元但馬守様・米倉丹後守様・御普請奉行酒井彦太夫様と承り伝え候。その後御不用に相成り、引き候年来相知れ申さず候。~
より大きな地図で 麻布の水系 を表示