2013年2月25日月曜日

二.二六事件

明日の二.二六事件慰霊祭に向けて二日間お届けします。

蹶起部隊比率
太平洋戦争が始まる五年前の1936(昭和11)年2月26日未明、雪の東京で陸軍若手将校がク-デタ-を起こしました。第一師団の歩兵第一連隊歩兵第三連隊と近衛師団の近衛歩兵第三連隊が中核になり1,558名の将兵が昭和維新といわれたクーデターに蹶起(けっき)しました。

この中で特に歩兵第三連隊(現・国立新美術館政策研究大学院大学米軍ハーディバラックス都立青山公園)は正式名称が第一師団歩兵第二旅団歩兵第三連隊でしたが、通称は「歩三(ほさん)」、「麻布三連隊」とよばれ青山墓地の前(新竜土町)に駐屯地がありました。私は戦後生まれですが、子供の頃(昭和40年代前半)は、連隊跡地で現在は米軍ヘリポートとなっている場所は広い原っぱで、休日にはラジコンやUコンの飛行機を飛ばしている人でにぎわっていて、私たちはその片隅でよく草野球などをしていました。

また歩兵第一連隊(正式名称:第一師団歩兵第一旅団歩兵第一連隊、通称:歩一[ほいち])も江戸期の長州藩邸~陸軍東京鎮台~陸軍第一師団~防衛庁~東京ミッドタウンと変遷を重ねた場所にあり、明治初期には乃木希典も連隊長を勤めた日本陸軍の筆頭連隊です。この歩兵第一連隊の場所(現・東京ミッドタウン)はやはり私が小学生であった昭和40年代には防衛庁とその裏手は桧町公園があり、この公園の池では付近の池(がま池、有栖川公園池、ニッカ池)にはまったいなかった「タナゴ」が生息しており、タナゴ針をつけた竿や四つ手網、セロビンなどで釣り上げては喜んでいました。またこのあたりはプラモデル購入の聖地でもあり、防衛庁前の路地を入った場所には当時のモデラーの聖地でもある「ふじかわ」があり、また一部の者は防衛庁内の購買部で割引されたプラモデルを買っていました。
参加人員内訳
近衛歩兵第三連隊(通称:近歩三[きんぽさん])は、乃木坂を下った現在のTBSあたりにあり、これらの連隊の所在地は極めて近い場所にありました。そして、事件の密議は、一連隊と三連隊の中間にあった明治33年開業のフランス料理「竜土軒」で行われていました。

ク-デタ-は、午前5時に一斉に開始され、

栗原隊......総理官邸襲撃、岡田総理と誤認した義弟の松尾大佐を射殺。
中橋隊......赤坂の高橋是清蔵相私邸を襲撃、同蔵相を射殺。
坂井隊......四谷の斎藤実内大臣私邸を襲撃、同内相を射殺。
高橋隊......荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲撃、同総監を射殺。
安藤隊......麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃、同侍従長は重傷。(何故か安藤大尉がと どめをしなかったため。)
野中隊......警視庁占拠。
丹生隊......陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部占拠。
河野隊......静岡県湯河原の牧野伸顕前内大臣を襲撃。
襲撃目標
などを襲撃しました。彼らは、政治、軍部の中枢である永田町を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して昭和維新の断行を迫ります。
しかし天皇の逆鱗にふれたため、3日後に反乱軍となり16倍の24,000人の鎮圧部隊と芝浦沖で永田町に照準をあわせた長門、山城、榛名、扶桑など戦艦4隻をはじめとする連合艦隊の第一艦隊十数隻の警備の中、投降を始めます。しかし、山王ホテルに立てこもった歩兵第三連隊第六中隊の安藤輝三大尉指揮下の安藤隊は投降を拒否。安藤大尉は事件の決起をギリギリまで渋ります。この安藤大尉が蹶起部隊への参加を決意したのは事件直前の2月22日であったといわれています。これは「天皇陛下の軍隊を私的に使用して良いものか?」という疑惑から躊躇していましたが、部下が参加する決意をしたことにより自身も参加を決めたといわれています。

しかし蹶起への参加を決めた後にはその決行の最右翼となりそれだけに決起の意志は固く、部下の信頼も厚かったので、部下を投降させた後に自身は投降よりも「自殺」を選びます。先に投降した同志の将校や伊集院大隊長の説得にも屈せず、2月29日午後1時、部下158名をホテルの中庭に集め、第六中隊の歌を合唱する中ピストルで自決しました。しかし、部下に飛びつかれて急所を外し一命をとりとめました。安藤大尉の部下は貧しい農民の子弟が多く、彼自身もこうした部下達に給料の大半を使うため生活は大変に苦しかったと言われ、こうした部下達の悲願から立ち上がった事と、逆賊として部下達を死なせる矛盾から「死」を選んだものと思われます。その後原隊である第三連隊はトラックを派遣して第六中隊兵士の収容をはかりましたが、158名全員がこれを拒否し、整然と行進して麻布の三連隊兵営まで帰ったといわれています。

保存された麻布三連隊兵舎
一方、このク-デタ-の将兵1483名の内訳は、将校20名、准士官2名、見習い医官3名、下士官89名、兵士1360名、民間人9名でした。この兵士1360名の内1027名は事件の47日前に入営し敬礼と整列ができる程度の新兵であり、その中のほとんどの者は上官の命令により通常訓練だとして参加させられました。この新兵の中には警視庁襲撃に参加させられた落語家柳家小さん師匠がいたそうです。

また歩兵第三連隊新兵の身出地は埼玉県全域と東京の浅草、足立、荒川、本所で農家や職人の子弟が主であり、当時の暮らしの状況でも「中」か「下」の子弟が圧倒的に多かったといわれています。
事件後3月8日軍法会議が特設され、将校20名下士官88名の取り調べが代々木の陸軍刑務所で始まります。一方兵士の取り調べも近衛師団で開始されますが、全国から無罪の嘆願書が寄せられ、憲兵隊扱いだけでも郵便515,368通、電報805,110通に及んだそうです。

その後の判決により、首謀者17名は死刑、69名が有罪となります。兵士は不起訴となりますが、第一師団の満州移駐と共に前線へと駆り出されました。最後まで投降をためらった第三連隊第六中隊はチャハル侵攻作戦の激戦地に投入され、中国正規軍との3ヶ月にわたる戦闘で600人の戦死、負傷者を出します。これは、日中戦争の中でもずば抜けて多いといわれています。軍は「事件に参加した兵は寛大に処置すべし」との方針でのぞんだことが当時の記録にも残されていますが、一般の兵の平均招集回数が2回であるのに対し、第六中隊は3回から4回も招集されたものが多かったそうです。
国立新美術館ロビーに展示されている
麻布三連隊隊舎模型
この陸軍青年将校の蹶起は直接的には第一師団の満州派兵が引き金になったというのが定説ですが、その遠因は陸軍内部の派閥抗争で、1921(大正10)年の「バーデンバーデンの密約」とされています。また蹶起の首謀者を陸軍高官や皇族とする説もありますが、いづれも定説となるほどの証拠は見つかっておらず、現在も深い謎に包まれています。

反逆罪で死刑を執行された遺体は憲兵隊、警察に監視下にあり遺族の引き取り、埋葬も間々ならなかったそうです。状況を見かねた栗原隊、栗原中尉の父親の栗原大佐は自ら麻布の賢崇寺に弟子入りして仏門に入り遺族間の連絡に終始し、賢崇寺に墓碑を建立し、銃殺刑が執行された7月12日に慰霊祭の法要が営まれました。
この興国山賢崇寺のおはなしは明日お伝えする予定です。





鎮台から師団






第一師団






近衛師団










1987(昭和62)年、元・近衛歩兵第五連隊と元・歩兵三連隊有志
により都立青山公園最上部に建立された「麻布台懐古碑」
 
 
 
 
 
 
 
 
麻布台懐古碑 碑文
 




第一師団第一連隊跡地
長州藩邸~東京鎮台~第一師団~
防衛庁~東京ミッドタウンと変遷した土地

















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